『不器用な恋を始めよう』こぼれ話
金曜日の晩、一人でのんびりと風呂に入ってきた凛子は、新居の廊下をてくてくと歩いていた。ドアが閉めてあるリビングから聞こえてくるのは、明人が誰かと話しているらしい声。誰かが訪れた様子もなかったし、相手の声も聞こえてこないから、恐らく電話をしているのだろう。 「…そういうことならしょうがないな……行くのは構わないけど、凛子は行けるかわからないからな? 知っての通り、いまは大事な時期なんだから、無理はさせたくないんだよ」 リビングのドアをそっと開けた瞬間、聞こえてくる声。 私? いったい誰と話しているのかしら? 「…ああ。ああ、わかった。それじゃ、明日にな」 電話を切って振り返った明人が、凛子に気付いて少々驚いたような顔を見せる。 「電話、誰だったの?」 「ああ、うちの妹の未来。つきあっている相手がいるって話は前にしただろ? んでいよいよ結婚に向けて動き出そうってことになったらしくて、うちの親と相手の親を会わせる算段をつけてたんだけど、うちの親がお世話になった方が急に亡くなったそうで、通夜とか葬儀に急きょ行かなきゃいけなくなっちまったらしくて……仕方ないから、あちらのごきょうだい夫妻と会ってもらえないかって言うんだよ」 「まあ! 未来さんもついにその気になったのね、おめでたいわ、私たちでよければ是非……」 喜びを隠すことなく言う凛子の腹部に、明人がそっと触れて…… 「未来のことも大事だけど、いまは凛子のほうが大事なんだよ、俺としては。やっとつわりもおさまってきたとこなんだろ? できることなら、無理してでかけないで家でおとなしくしててほしいんだよ」 明人がとても大事そうに、慈しむように撫でる凛子の腹部は、だいぶふくらんできてようやく妊婦らしく見えるようになってきたところだった。 「大丈夫よ、明人さん。ちょっと行ってご挨拶してくるだけなんでしょう? つわりももうほとんど大丈夫だし、そんなに長い時間でかけなければ済むことなんだから。でなくても、毎日仕事に行けてるぐらいなんだから、心配ないわよ」 「ホントに大丈夫なのか〜?」 明人はまだ心配そうだ。 「ホント、心配性なパパねえ」 くすくすくす。そんな風に、幸せな夜は更けていった……。 * * *
「お義姉さん、大変な時にホントごめんなさいっ まさか、こんなことになるなんて思わなくて」 待ち合わせ場所だというレストランの席で、凛子の前で両手を合わせて拝み倒してくるのは、明人の妹の未来。凛子の義妹にあたる存在だが、さばさばとして裏表のない性格でとても付き合いやすいので、実の妹の蘭子同様、凛子が可愛がっている相手だ。 「いいのよ〜。誰でもない、未来ちゃんのためだもの。それに、お葬式ばっかりは、いつくるかわからないから、仕方ないわよ。相手の方もごきょうだいがいらっしゃるんでしょう? 親御さん同士で会う前に予行練習すると思えばいいじゃない」 「お義姉さん、優しい……どこぞの薄情兄貴とはえらい違い」 とたんに冷ややかな目になって、未来は二人の間に座る明人に視線を移す。 「当たり前だ。妹より、妻子のほうが大事に決まってるだろうが」 「それはわかるけど、少しぐらい融通きかせてくれたって…」 ぶちぶちと未来が言いかけたその時。 「未来ちゃん、お待たせ」 声をかけてくる存在があった。 「大地くん!」 嬉しそうに相手の名を呼びながら、未来が立ち上がる。ずば抜けてイケメンという訳でもないが、清潔感あふれる優しそうな青年だった。未来が好きになるのもわかる気がすると、凛子は思った。 「今日は、ホントにごめんねー。こんなことになっちゃって」 「お葬式ばっかりは仕方ないよ。それに、俺もいきなりご両親にお会いするより先にごきょうだいのほうが、少しずつ覚悟が決まっていいというか」 その言葉にハッとして、未来が背後の凛子たちを振り返る。 「あ、とりあえず紹介するわね。兄の神崎明人と、凛子義姉さん」 「初めまして、いつも妹がお世話になっています」 明人と共に立ち上がり、会釈する。 「初めまして、佐藤大地と申します。お義姉さんのほうはいま大事なお身体だと聞いているのに、今日はいらしていただけて嬉しいです、ありがとうございます」 「いいえ、お気になさらず」 「ところで、大地くんのお姉さんたちは?」 「ああ、時間に遅れそうだったんで、俺だけ先に急いできたんだ。もう来ると思うんだけど…あ、来た!」 出入り口のほうに目をやっていた大地が、笑みを見せる。その視線を目で追っていた凛子は、とてつもなく驚いてしまった。 「すみません、遅くなりまし…て……」 後からやってきた男女ふたりの男性のほうが笑顔でそう言いかけたところで、大地と未来以外の全員が固まった。 「に…西尾くんっ!?」 「神崎さん!? それに凛子さんも…」 「『佐藤』なんてよくある名前だと思ってたけど、由風の弟さんだったの!?」 凛子の言葉に、由風も目を丸くしている。 「え…姉貴もお義兄さんも、未来ちゃんのお兄さんたちと知り合いだったのか?」 驚きを隠せないまま問いかけた大地の胸ぐらを、由風がいきなりひっつかんだ。 「てーめー。相手の名字なんか、一度も言わなかったじゃねえかよ。知ってて狙ったのか? ああっ!?」 「えっ 俺、未来ちゃんのフルネーム言ってなかったっけ!?」 「まあまあ、由風さん、落ち着いて。とにかく座りましょう」 宥めるような一馬の声に渋々従い、明人の向かいの席に由風が腰を下ろした。 「え…兄貴もお義姉さんも、こちらとお知り合いだったの?」 「知り合いも何も…全員同じ会社の、しかも同じ課で働く仲間だよ」 「嘘おっ!?」 未来も何も知らなかったらしく、素っ頓狂な声を上げる。 「ほら、由風さん。あちらのお嬢さんもびっくりしているし、ちゃんと自己紹介して」 一馬の声に、不承不承といった体で由風が未来に向かって会釈する。 「大地の姉の、旧姓・佐藤こと西尾由風と申します。弟がお世話になっているようで……」 さすが営業のトップを明人と張り合うだけのことはある。それまでの不機嫌さなど感じさせない笑顔で、由風がきちんと挨拶したので、凛子はホッとする。 「その夫の西尾一馬です。神崎さんと凛子さんには、夫婦ともどもいつもお世話になって……」 一馬はさすがにそつがない。 やがて、運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、主に大地と未来を中心に談笑は続く。 「…それにしても。うちの兄たちと大地くんのお姉さんたちが同僚だったなんて、全然知りませんでしたー」 未来のその言葉に、由風の眉がぴくりと反応したのを見て、凛子は「マズい」と思う。 「……ハッキリ言って、弟の結婚については賛成だしめでたいことだとは思うんだけど、こいつと親戚になるのだけは…勘弁願いたいね」 由風が指した「こいつ」とは、明人ただひとりのことだ。 「相変わらずおとなげないですね、由風さん。未来と大地くんが結婚するのなら、必然的にそうなるでしょうに」 明人も、負けてはいない。 「ちょ…っ 由風さんも神崎さんもっ おめでたい席なのに……」 一馬が宥めるように言うが、二人の間の険悪な空気は変わらない。未来と大地もハラハラ顔だ。 「凛子まで完全に独り占めしようとする奴に言われたかないねー。やだね、余裕のない男は」 「そちらこそ、親友の幸せを祈る懐の深さをお見せになったらどうです?」 止まらない舌戦に、ついに凛子がキレた。 「──────二人とも。今日は未来ちゃんと大地さんのための顔合わせなのよ。それなのに、姉と兄同士がケンカをしてどうするの。いい加減にしないと、私も本気で怒るわよ!?」 地の底から響くような低い声で凛子が一気に告げると、明人と由風の顔から怒気が瞬時に消え失せて。まるで母親に叱られた子どものような顔になって、凛子のほうを見る。 「り…凛子、ごめん」 「凛子っちゃーん、怒っちゃやーよう」 さっきまでの険悪な雰囲気が嘘のように、二人してとたんに凛子のご機嫌とりに走り出した。それを見ていた一馬が吹きだしたのを合図にするかのように、未来と大地もくすくすと笑いだした。 「さすが、凛子さん。この二人の扱いにかけては、誰にもひけをとりませんね。それとも、母は強し、とでもいうべきかな?」 褒められてもあまり嬉しくないのは気のせいだろうか。 「とにかく、自分の妹と弟の祝い事なんだから、二人はきちんと祝福してあげること! 各々の個人的感情は、胸の奥にしまっておきなさい、もういい大人なんだからっ」 「……はあ〜い…」 二人はもう、すっかりしょげ返っている。 「よかった〜、お義姉さんがいてくれて。あたしたちだけだったら、どうなってたかわかんないわあ」 「ホントに。うちの姉貴をここまでおとなしくさせるなんて、亡くなったうちのおふくろくらいかと思ってたのに。まるで猛獣使いみたいだ、尊敬します」 ここまで言われるとは……いったい由風は、これまで弟にどんな態度で接してきたのか。 そして、とりあえず和やかな空気のまま、会談は終わり。数週間後、双方の親を交えての本格的な会食が行われ、その数ヶ月後には未来と大地の結婚式が、大々的に行われた。ふたりが凛子の体を慮って、出産して落ち着いた頃に執り行ってくれたので、凛子も安心して出席することができたのはよかったが、実はこの会食の時点で本人も気付いてはいなかったが、由風のお腹の中にも新たな命が宿っていたことが直後にわかり、そちらの意味では大変だったのだが、それはまた別の話。 |
2013.12.7up
以前某所で発表していたSSです。
本編であまり出してやれなかった蘭子以外の弟妹を
もっと目立たせてやろうというのがきっかけでした。
これにて『不器用』シリーズは完全終了。
こんなところまで読んでくださって、ありがとうございました!!
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