〔8〕
そして、その翌週の週末の晩には、「心配をかけた詫びをしろ」という名目で、居酒屋にて奢りまくりという刑に処された。一馬は「自分は大して役に立っていないし」と辞退しようとしたが、明人いわくすさまじい剣幕だったという由風を件の週末に宥めまくってくれた苦労を思うと、とても彼も外すことはできなくて、明人と共にふたりに存分に奢りまくったことは言うまでもない。 「でさあ?」 ほどよくアルコールが回って目がすわってきた由風が、凛子の肩に腕を回して引き寄せて、質問してきた。 「え?」 「西尾が見たっつー男はいったい誰だった訳? お兄さんでもないし、元カレでもなかったらしいし、どこのどいつよ? うちの会社の男でもなかったらしいじゃん」 予想外の質問に────最初の質問で男友達と言っておいたにも関わらず、由風は納得しなかったらしい────凛子はぎくりと身をこわばらせる。個室だから、よその人に話を聞かれる心配はないが、それにしても由風のこの質問は……困る。 「だ、だから男友達だって……」 「あんたと知り合って約10年、そんな時に頼れるような男友達の話なんて、聞いたことないんだけど〜?」 まったく。酔っているくせに、記憶力だけはよいのだから始末に負えない。どうごまかそうかと思っていたところで、一馬が助け船を出そうとするそぶりを見せるが、その前に由風が爆弾発言を投下するほうが早かった。 「あっ もしかして、例の元カレじゃない別の元カレだったりしてー」 げらげらと笑いながら言う由風の声に、明人の身を包む空気が急変した気がした。それまでは落ち着いた冬の日の陽射しのようだったそれが、絶対零度のそれに。凛子の背筋を、冷たいものが伝っていく。 あああああ、明人さんの顔を見るのが怖いーっ 由風の馬鹿ー、何てこと言ってくれるのよ、振り向けないじゃないっっ もう何を言っていいのかわからない凛子は、内心で大パニック状態だ。自分が悪いのはもちろんわかっているが、せっかく明人とも仲直りできたというのに、これでは逆戻りではないか。 実は先週末の昼間、明人の家に訪れていた凛子は、明人の腕の中で後ろから抱きすくめられた状態で、工藤に「最後の報告」と称して電話をしていたのだ。けれど、「出先だし、直接話せないか」と言う工藤に呼び出されて、街中のオープンカフェで三人で会うことになって……明人と無事に仲直りできた旨と丁重な詫びと礼を述べたのだが─────余裕綽々の工藤に対し、明人はやはり毛を逆撫でた猫状態で、早めに話を切り上げようと凛子が思った瞬間、それは訪れた。 「ぱぱーっ!!」 一瞬、何が起こったのか凛子にはわからなかった。五、六歳から小学校低学年くらいの女の子が二人、こちらに向かって走り寄ってきたのだ。二人とも色違いの可愛らしい服を着ていることから、姉妹だということが安易に見てとれる。そして、その子どもたちが駆け寄ってきたのは、まぎれもなくふたりの目前で椅子に腰を下ろしている工藤の元で……。 「おっ 買い物はもう済んだのか?」 工藤も優しい笑顔で、子どもたちに応えている。 「うんっ ままにね、おりぼんかってもらったのーっ」 「まゆとみゆで、色ちがいのなんだよっ」 「そうかそうか、よかったなあ。後でつけたところ、パパに見せてくれなー」 「うんっ!」 「…………」 いったい…目前では何が起こっているのだ? 真剣にわからなくて、凛子は明人のほうを見るが、明人も同様の表情でこちらを見返すだけだ。やがて、近くの百貨店の紙袋を持った優しそうな女性が姿を現して、子どもたちに諭すように声をかけてくる。 「こら、ダメよ。パパはお友達とお話してるんだから」 そう言って、慌てた様子で近付いてくる。 「すみません、お邪魔しちゃって……」 申し訳なさそうな表情で子どもたちの手を引いて離れようとする女性の前で、工藤は立ち上がって。 「ああ、大丈夫だよ、話はほとんど終わったから。じゃ、俺はこれで。こないだのお返しに、ここの勘定はよろしく」 そう言って工藤は、笑顔で会釈する女性を伴って、右手で子どもの一人の手を取ってそのまま表に出て歩き始める。「バイバイ」とでも言いたげに振るその左手の薬指には、先日会った時にはなかったはずの指輪が、キラリと陽光に輝いて……その指に指輪があるということは、示す意味はただ一つしかなくて…………。 「─────あん、の…ヤローっ!!」 凛子の隣から聞こえてきた絞り出すような低い声に、近くのテーブルにいた女性がびくりと身を震わせる。けれど凛子も、そんな事実に気付く余裕もなかった。あまりにも、驚愕が大き過ぎて。 「妻子がいるくせに、何が『俺がもらう』だ、ざけんじゃねーっ!」 その声にさすがにハッとして、いきり立つ明人を凛子は慌てて宥める。 「明人さん、落ち着いてっ」 「やっぱあいつ、一発殴らなきゃ気が済まねーっ」 「落ち着いてってば!」 その後、ようやく落ち着いた明人を休ませている間に、急いで蘭子にメールを打つ。 「ちょっと訊きたいんだけど、工藤くんって結婚してたの?」 それに対する蘭子の返事は早かった。 『あれ、あたし言ってなかったっけ? あたしたちが卒業した年に結婚したんだって』 「指輪してないからわからなかったわよ」 『あ、会ったの? 学校では生徒にからかわれるから、平日は指輪はしないんだって言ってたわよ』 何も知らない蘭子の返信に、凛子の身体からもどっと力が抜けた。何というか……昔から、ハッタリをかますのが得意な人間ではあったが…正直、いまも変わらないとは────いやむしろ、当時より更にパワーアップしたように思える。もしかしたら、PTAなどとの駆け引きの果てに磨きをかけたのかも知れない────思ってもみなかった。明人とふたりそろって、完璧にやられたと。凛子は思わずにはいられなかった。 「それはともかく、あっちの彼女のほうはどうなったんです? 先週はほとんど来てませんでしたよね。島野くんから聞いたんですけど、向こうの支社に行ってもお休みしてるということで、全然顔を見なかったとか」 それを聞いた瞬間、由風の興味は即座にそちらに移ったのか、「そうなん?」と訊いてきた。美里の話が出たとたん、明人の雰囲気も元のもの…というより、ばつが悪そうなそれに変わったので、凛子はホッとする。 「あたしはよく知らないけど……そうみたいね」 「今週はさすがに出てきてて顔を合わせたけど。仕事以外の話はしてないし、大して変わった様子は見えなかったな。女性に手を上げちまったのは悪いとは思ったけど、彼女もそれぐらいは覚悟の上だったと思うし」 「殴ったの!?」 「やったのか!?」 凛子は驚きの、由風は歓喜のそれという対照的な表情で、二人はほぼ同時に明人を振り返る。 「殴ったというほどじゃ…カッとなって、つい平手打ちしちまったというか」 いくらひどいことをされたからといっても、女性に手を上げるなんて……。思わず非難がましい目で明人を見返しかけた凛子の隣で、由風が心底残念そうな顔を見せる。 「なんだあ、たかだか平手かよ。それこそボッコボコにしてやりゃよかったのに」 「由風!」 あまりに過激なことを言う親友に、さすがに嗜めるような声を上げる。 「一度だけだし、凛子にしたことを思えば、お釣りがくるぐらいだと思うけど」 「でも……彼女だって、ちゃんと謝ってくれたのに」 それはほんとう。今週になって廊下で初めて顔を合わせた時、凛子は一瞬身構えたが、彼女は至って普通に挨拶の言葉をかけてきて、それに応えて彼女が脇を通り過ぎていくのを待っていた凛子の耳に届くか届かないかの小さな声で、ただひとことだったけれど確かに「ごめんなさい」と告げてくれたというのに…………。 「神崎に殴られて、やっと目が覚めただけじゃね?」 相変わらず由風の言うことは容赦がない。 「それだけじゃないと思いますけどね」 意外なことを言い出したのは、一馬だった。 「これは僕の勝手な憶測ですけど、あの人自身、自分を止められなかったんじゃないかな。だから、神崎さんのように強硬手段ででも誰かが止めてくれるのを待っていたとか……本人にそう聞いた訳でもないし、ホントに勝手な想像ですけどね」 それは…あるかも知れない。何故なら、先々週までと違って、今週会った彼女は何だか憑きものが落ちたような顔をしていて……何か、ふっきれたかのようだった。どんな心境の変化があったのかまでは、凛子にはわからなかったけれど…麻美香も安心しきったような顔で笑いかけてくれたことを覚えている。 明人から聞いた彼女の元々の性格と、片岡から聞いたという彼女の過去の話から、今回の彼女の一連の行動はすべて自棄になった結果だったのだろうと、いまなら思える。自分と同じように気ままに過ごしていたという明人が幸せになろうとしていることへの苛立ち、そしてかつての明人と元の伴侶だという男性がダブって、凛子まで自分と同じような運命をたどるのではないかという危惧と……それから、いくばくかの嫉妬と。それらすべてが自分が味わった悲しみ、苦しみと複雑に絡み合って、今回のような行動に出てしまったのだろうと、凛子は確信していた。そして、何より彼女のそばに片岡がいる限り、もう二度とそんなことにはならないだろうということも。 「彼女はもう、大丈夫よ」 強い確信を持って、凛子は言い切る。 「ま。もう迷惑かけてこないんならいいじゃん、もうじきプロジェクトも終わるんだろ?祝いだ、飲もうぜえ!」 由風の声に促され、そのまま普通の飲み会のムードに戻ったので、凛子も明人もやっと安堵の息をつくことができた。まったく、一馬の機転に感謝する他ない。 その後、ほとんどトラと化した由風を「大丈夫ですから」と笑う一馬にまかせて、ふたりは明人の家に向かった…………。 「…………」 それを、脱衣所の出入り口に直に座って興味深げに見つめているのは、明人。いったい、何が楽しいのだろう? 一緒に入浴したとはいえ、自分の髪はとうに乾かし終わっているのだから、先にリビングにでも行けばいいのに。 「なあに? さっきからじっと見て、どうかした?」 ドライヤーを一度停めて訊いてみると、明人はハッとしたような顔をする。 「あ、いや…髪を乾かしてるところは初めて見るなーと思って」 「そうだった?」 「うん」 「そんなに珍しいもの?」 「ていうか……凛子だから、見ていたい」 まったくもう。そういう恥ずかしい台詞を、まるで照れもせずに言うのだから困ってしまう。しかもそれが、お世辞とかそういうものではなく、本心からの言葉だからより始末が悪い。 「…っ はい、終わったわよっ 歯みがきも終わってるなら、さっさとリビングに移って移ってっ」 ドライヤーを片付けて、両手で転がすように自分より大きい明人の身体を追いたてる。「あはは」と笑いながら、ほとんど四つん這いの状態で明人がリビングへと移っていくのを見届けてから、凛子もバスルームの床に落ちている髪の毛をチェックして、電気を消してその後に続いた。 ふたり並んでホットカーペットの上に直に座り込んで、ソファを背もたれにしながら、テレビ番組に見入る。わりと好きなお笑い芸人が面白いことを言ったので、思わず声を上げて笑ってしまう。そんな時、ふいに髪の毛に何かが触れる気配を感じて、首をわずかにそちらに動かした。見ると、凛子の乾いたばかりの髪に明人の指が絡まっている。 「どうしたの?」 「ん? やっぱ、ふわふわの髪って手触りが好きだなあって思ってさ」 そういえば、一番好きなのは凛子の内面だけれど、外見もモロ好みのタイプだと言われたことがあった。ストレートの髪より、くせっ毛や天パの髪のほうが好きらしい。いままで逆の言葉はさんざん言われたが、そんなことを言われたのは初めてだったので────決して短いとは言いきれない人生を歩んできたにも関わらず、だ────よく覚えている。 「やっぱり女の子のやわらかい髪っていいよなあ。野郎のはどうでもいいけど、ふわふわはやっぱり女の子の髪に限るよ。学生時代から、クラスのそういう髪の女の子の髪に触りたくて、いつもウズウズしてたことを覚えてる。大して親しくもない女子の髪に触ったりしたら変態扱いされるだろうから、懸命に堪えてたんだよなー」 「そんなに?」 学生時代はパーマをかけられなかったから、ずっと三つ編みにしてごまかしていた凛子には、何だか新鮮な話だった。 「もしも学生時代に凛子と出逢ってたら……絶対誰にも渡さないで、そのまま一生俺だけのものにしてたのにな」 言外に、工藤より先に出逢いたかったと言われている気がして、胸の奥が小さく痛む。 「…でもまあ。進路やら就職やらで何が起こるかわからない学生時代より、いまのほうが障害もあんまりなくて別れる可能性も少ないだろうから、いいかも知れないけどー」 その台詞にホッとして、小さく安堵の息をつく。 「でもそう言ってもらえると嬉しいな。母がそういう髪質だったから、兄妹全員似ちゃったのよね。昔はホント、ストレートでさらさらの髪の子が羨ましくて羨ましくて……」 「さらさらなんて、男でもいるじゃん。天然ものでふわふわなんて、ホント貴重だよ」 「ちょっと、鮎か鰻みたいに言わないでよー」 そう言って笑った瞬間、目を閉じて自分の髪に口付けている明人の姿が目に入って、一瞬で全身が熱くなる。 「ななななななっ」 「あ、凛子、顔が真っ赤だよ」 わかっているだろうにくすくす笑いを交えながら告げる明人に、凛子の身体の奥が更に熱を帯びる。 「凛子の身体なら、もうどこにだってキスしたい。俺の触ってないところがないぐらい、全身くまなく触りまくりたい───────」 そのまま首筋にキスされて、思わず小さな声を上げてしまう。 「こ…ここじゃ、嫌────」 「うん。寝室に行こうか」 何だかんだと言いながら、結局明人のいいようにしてしまうあたり、自分にも惚れた弱みがあるのだなと凛子はつくづくと思った…。 一息ついて、ベッドで横たわって目を閉じていた明人を、しばし見つめてからそっと上から軽く唇を重ねる。明人が少し驚いたように、けれど嬉しそうな顔で目を開けてこちらを見るので、何だか気恥ずかしくなってぽすっとその胸に顔をうずめる。 「どした? こんなサプライズならいつでも大歓迎だけど♪」 「…何でもない。ただ、したかっただけ」 急に愛しさが込み上げてきて、ついしてしまったなんて、言えるはずがない。言ったら最後、どうなるか誰よりもよく知っているから。 |
〔終〕
2013.12.7up
すべて丸くおさまって大団円。
これにて、『不器用』シリーズ本編は完全終了です。
最後まで読んでくださったあなたにめいっぱいの感謝を込めて。
ほんとうにありがとうございました!!
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