クラスでも家でも…「凛子ちゃんがいてくれるから助かるわ」と言われるのが嬉しくて─────妹の蘭子が生まれてからは特に、兄よりも自分を格段に慕ってきてくれる妹が可愛くて、つい頑張って何にでも挑戦しているうちに、気付いたら何でもそれなりに人並み以上にこなせるようになっていて、それでますます頼られることが多くなったように思う。けれどそれが苦ではなく、より頑張ろうという気になったあたり、自分でも単純だったと思う。 初めて付き合った相手は、同じ学校の生徒会長で。副会長を務めていた自分とは何かとセット扱いされることが多く、個人的にも親しく付き合うようになっていくうち、いつの間にかそういう関係になっていった。初めては、すべて彼とだった。生真面目で意志の強い彼はどんな時でも自分を曲げなくて、よく意見の食い違いで衝突したことを覚えている。 お互いの進路と進学先がまったく違っていたせいで、卒業と同時に自然に別れたけれど…彼も、お互いに安らぎを与えられる相手に出会えただろうか。 二度目に付き合ったのは、大学生になってから。愛想と調子のよかった彼は、成績はイマイチだったが皆に好かれるタイプの性格で。素直に甘えてくる様子に母性本能が刺激されたのだろうといまなら思う。卒業して就職してから、彼は変わってしまって、結果は悲しい終わりにしかならなかったけれど───────。いまでも、思い出すと胸が痛くなる。 そしていま。彼らとは、まったく違う相手がそばにいる。頼られることに慣れ、すべてを自分で抱え込むことしか知らなかった自分に、「甘えてもいいんだよ」と教えてくれた彼。「独りで頑張らなくていいんだ」と教えてくれた彼。頭ではわかっていても、感情がついていかなかった自分に、心と身体のすべてで教えてくれた彼───────。 「ご馳走さまでした」 自分の作った料理をいつもすべて平らげてくれて、満面の笑みでそう言ってくれる彼。それだけで、心が満たされる気がしてくる。 「お粗末さまでした」 そう答えると、彼は食後の一服をする訳でもなく────後で知ったことだが、彼は悲しい経験から煙草類は一切やらないのだそうだ────空いた食器を流しに持っていって、自発的に洗い物を始める。そんなことは自分がやるからいいと言っても、「美味しいご飯を作ってもらったんだから、これぐらいは当然でしょ? 人生助け合いの精神で行かなきゃ」と言って笑った。こんなひと、初めてだった。 「あ、そうだ」 最後の皿を洗い桶に置いてから、明人はふと思い出したように口を開く。 「うちの妹の未来がさ、凛子がこの前実家に行った時に持ってきてくれたケーキをすごい気に入ったみたいで、買った店に連れてってくれってうるさいんだよ。今度、つきあってくれないかな」 「ああ、あれ? あれは蘭子のダンナさんが作ったものなのよ。じゃあ今度お店にご招待するわね」 凛子の妹の蘭子は嫁いだ後も保育士を続けているが、自分の仕事が休みの時は嫁ぎ先の洋菓子店の売り子を手伝っているという。あの強面の夫では客が逃げてしまうから────中身はとてもシャイで腕もいい職人なのだが、外見だけが異様に怖いという不憫な人物なのだ、蘭子の夫という人は────元より売り子は姑や舅がやっていたのだが、最近は夫の弟のところに第二子が生まれたとのことで子守の手伝いで忙しく、蘭子もできる時は自主的に手伝っているとのことだった。そんな訳で、凛子も売り上げに協力するべくよく利用しているのであった。「由風さんにちょっと似てるよ」と明人が言っていた通り、未来はとてもさばさばした性格の女性で、これを機に蘭子のよい友達になってくれるといいなと凛子はこっそり思っていたりする。 「さて、風呂も沸いたことだし、一緒に入ろうか♪」 「い、嫌よっ」 と言っても、明人は「いいからいいから」と言って凛子を引っ張って脱衣所へと向かう。いつもこうだ。気が付くと、すっかり明人のペースに巻き込まれている。こういうところも、いままでの恋人と違うところだと凛子は思う。 「もう…嫌だって言ってるのに」 バスローブをまとい、乾かした髪を手ぐしで軽く整えながらリビングへと入っていくと、冷たい麦茶を飲んでいた明人が実に幸せそうに笑みを浮かべている。 「? なあに?」 「いやあ、一枚羽織っただけの無防備な姿ってホントいいなあと思って」 とても会社の人間には見せられないにやけっぷりだ。 「すけべ」 「おー、男は皆すけべだよーっ」 「開き直らないでよ」 と言いつつも、あまりの素直さについクスクスと笑ってしまう。 「でも凛子だって、ベッドの中ではすごい素直なの、自分で気付いてる?」 バスローブの襟元からするりと手を入れられて、思わずびくりと身を震わせてしまう。 「ん…っ」 眼鏡を取られて、優しいキスを唇に落とされると、自然に全身から力が抜けていく。凛子が、一番ホッとする瞬間だった。そのままベッドへと抱き上げられて、そっと下ろされて……明人はいつでも丁重に凛子に触れるけれど、凛子の身体を撫でるこの時の手が一番優しくて、それが凛子の一番好きな時だった。行為が進むにつれ、激しくもなっていくのだけれど。 「明人さん……」 ささやくように名を呼ぶと、凛子の胸元に顔を埋めていた明人が不思議そうに顔を上げる。そこに、間髪入れずに続けてささやいた。 「好きよ───────」 そんなことを言われるとは思ってなかったのか、明人の顔が一瞬で真っ赤に染まる。そのさまがあまりに可愛かったので、口元に笑みを浮かべる。凛子の素顔にはすっかり慣れたような明人だったが、いまでもそんな不意打ちで純なところを見せるのが嬉しくて、凛子は時々つい意地悪なことをしてしまうのだ。もっとも、そんなことをした直後には倍返しともいえるお返しが待っているのだけど。 「…っ あっ ああっ!」 予告なしで一番弱い箇所を刺激されて、凛子は思わず大きな声を上げてしまう。 「ダメだよ、あんまり大きい声を出したら、隣近所に聞こえちゃう……」 凛子の唇をみずからの唇でふさぎながら、けれど手の動きは止めないままなので、凛子は声すら満足に上げられないまま押し寄せる快感の波に翻弄されてしまう。ようやく唇が離れても、近隣への配慮まで忘れることはできず、みずからの手の甲を唇にあてる。 「そんな可愛いことされたら……俺よけい燃えちゃうよ?」 嘘ばっかり。そんなことをしなくても、凛子が相手の時にはいつでも本気で攻めてくるくせに。おかげで翌朝はいつでも寝不足で、仕事のある日にはいつも皆にからかわれてしまうのだ。 だけど、不思議なことに凛子はそれが嫌ではない自分に気付いていた。これまでのどんな相手でも感じきれなかった心安らぐ時間を明人は与えてくれるから────もちろん与えてもらうばかりじゃなくて、凛子からもいつでも与えるつもりだったけれど────周囲の皆は明人のほうがベタ惚れだと信じきっているようだったが、より相手を必要としているのは自分のほうなのではないかと、凛子は思うようになっていた。万が一、明人と離れるような事態にでもなったら、自分は壊れてしまうのではないかと危惧してしまうほどに。 「─────お、ねが…い」 荒い呼吸の中、凛子がささやいた言葉に明人の動きが一瞬止まる。 「わた…しを……はなさ、ないで、ね…………」 もはや心情からのそれなのか、快楽からのそれなのかわからないが、涙が目尻ににじむ。明人の指がそれをそっと拭い、再び凛子の唇に口接ける。 「馬鹿だな」 ぎゅ…!と抱き締められて、凛子は一瞬呼吸ができなくなってしまった。 「焦がれて焦がれて…ようやく手に入れた宝物を、誰が手放すって言うんだよ」 何度も言われた言葉だけど、過去が過去だけにどうしても臆病になってしまう。 「どうしても心で納得しきれないなら。身体で解らせるだけだけど?」 どことなく意地の悪い笑みを浮かべて言う明人に、思わず苦笑い。 「いつも手加減なんてしないくせに」 「そう思う?」 その夜。凛子は生まれて初めて、意識を飛ばすという経験を味わった。意識を失う瞬間、優しい明人の声を聞いた気がしたが、あれは気のせいだったのだろうか。 「愛してる────────」 数分か十数分か。ようやく意識を取り戻した凛子は、明人に予想もつかない言葉を告げられて、大粒の涙を流してしまった。あまりにも、嬉し過ぎて。もちろん断る理由などなく了承の返事をした直後、再び第二ラウンドが始まってしまい、翌日にはベッドから起き上がれなくなったことは言うまでもない。 更にその翌日、街の宝石店にでかけるふたりの姿があったことも追記しておこう。 「あら? 凛子さん、腰どうかしたんですか?」 午前中、給湯室でさりげなく休憩していた凛子を、愛理が目ざとく見つけた。 「ちょ、ちょっと筋肉痛で、ね」 「スポーツの秋ですか? いい季節ですもんねー」 何も気付いていないらしい紗雪が楽しそうに話題に加わってくる。麻美香は何も言わなかったが、同情的な目だ。 麻美香にはバレちゃってるわね、これは……あーもう恥ずかしいっっ 何とか顔に出さないようにつとめているが、自分のデスクで肩を震わせている明人と由風の後ろ姿を見たとたん、凛子は茶筒をぶつけてやりたくなった。由風はまだしも、明人は誰のせいだと思っているのだろうか!? 心なしか、西尾の肩も震えているように見えたが、気のせいだろうか? 「─────あら? 凛子さん、その左手の薬指のそれはもしかして!?」 さすが麻美香はそういうことには目ざとい。凛子が左手を背後に隠すより早く、しっかりと左手首をつかまれて、まじまじと見られてしまった。 「やっぱり! お給料三ヶ月分のアレですか!?」 「えっ!?」 「うそっ!?」 さすがそういうことには皆食いつきがいい。あっという間に凛子は皆に囲まれ、すっかり質問攻めにあってしまった。由風にだけは、昨夜のうちに電話で報告しておいたのでこの場には寄ってこないが、自分の席に座ったままニヤニヤされていると、何とも意地悪をされている気分になってしまう。 それは、凛子の誕生石であるトパーズの指輪。「暖かい色で、凛子にぴったり」と言って明人が選んでくれた指輪だった。 「はいはい、うちの奥さんはこういうことに慣れてないから、質問は僕を通してくださいねー」 見かねた明人が間に入ってきてくれなかったら、凛子はもうその場でパニックを起こして、何一つ答えることができなかっただろうと思う。 「なんだ、マネージャーじゃなくてダンナの登場かよー」 ひやかすような声にも、明人は動じない。 「課長には今朝ふたりで報告しましたけどね。課の皆さんもご招待する予定なので、よかったら皆さんいらしてください。ちなみに式は春頃の予定です」 「はいしつもーんっ プロポーズのセリフは何ですかー」 「それは秘密です」 「はいはーいっ 式場はどこですかーっ あと、和式ですか洋式ですか」 「それはまだ決めていません」 「まだ何も決まってない状況ってこと? いったいいつ決まったんですかー」 「プロポーズは金曜の晩で、指輪を買ったのは昨日です」 「早っ ってか何で間に一日空いてるんですかー」 「それはご想像におまかせします」 にこにこにっこり。さすが、営業で一、二を争うだけのことはある。どんな質問にも笑顔で平然と答えている明人を見ていると、つくづくそう思う。 「結婚したら、凛子さんはお仕事どうするんですかー。まさか、辞めちゃうんですか!?」 「そんなの嫌ーっ!」 「凛子さん、辞めないでくださーいっっ」 三人娘の叫びにはさすがに黙ってられなくて、「馬鹿ね」と微笑みながら、凛子は一歩前に出る。 「私があなたたちを残して辞める訳ないでしょ。これまで通り、働かせていただくつもりよ」 「よかったーっ!!」 「まだまだ凛子さんと一緒に働きたいですーっ」 「お子さんができても辞めないでくださいーっ」 「お子さんって……」 さすがにそこまで話が飛躍してしまうと、もう何も考えられなくなって、顔が真っ赤に染まってしまう。 「やーん、凛子さん可愛いーっ」 「何だよ、凛子女史そんな顔もできたのかよー。ならもっと早く目をつけときゃよかったなー」 男性社員の冗談とも本気ともつかない声に、明人の身を包むオーラが一変した。顔は笑顔のままだが、雰囲気だけは剣呑なそれに。 「や、やだな、冗談に決まってんじゃんっっ 本気にすんなって」 そう返されたとたん、明人の雰囲気が元の穏やかなそれに戻ったので、凛子もホッとする。明人の本性については、凛子ですらまだ把握しきれていないのだ、こんなところで全開にされたらたまったものではない。 その後は、祝福の嵐。主役になるのに慣れていない凛子には、恥ずかしいことこの上ない恒例行事だった。皆が去った後、熱くて仕方ない頬を両手でクールダウンさせていると、背後からぽんと肩をたたかれ、振り返ったとたんそこに立っていた明人に唇を奪われた。 「な…っ!」 怒鳴ってやりたいところだが、皆に知られる訳にもいかないので、懸命にこらえる。楽しそうに逃げていこうとする明人だったが、ふと思い出したように振り返って、凛子の耳元でそっとささやいた。 「………幸せに、なろうな───────」 そこが、限界。凛子の顔が火を噴かんばかりに真っ赤に染まった……………。 よく晴れた、春の土曜日に凛子と明人の式は執り行われた。最初の衣装は、ウェディングドレス。年も年だし、あまり派手にしたくないと言った凛子を、明人が説得してリクエストしたドレスだった。ブーケはもちろん想い出の百合の花────明人の伯父伯母の力作の代物だ。 式の後には、明人とのツーショットや友人、会社の仲間たちとの写真撮影会。皆のリクエストにより、たっぷりと余裕をとって予定していた時間だった。三人娘たちとの写真を撮り終えて、次はいよいよ由風とのツーショットというその時。由風がカメラを見て笑顔をたたえたままで、ぽつりと呟いた。 「あたしさー」 「え?」 こちらも笑顔は絶やさない。シャッターは連続で押されたままだ。 「ついこないだ、西尾と入籍したから」 いつもと変わらぬあっけらかんとした笑顔を向けて、由風が笑った。いったい何を言われたのかすぐにはわからなかった凛子は、数瞬考えてから。 「えええええっ!?」 と花嫁にあるまじき大声を上げてしまった。 「お姉ちゃんどうしたの? そんなすごい声上げて」 「凛子? 由風さんに何か言われたのか?」 蘭子や明人が口々に訊いてくるが、凛子は答えすら返せない。由風本人は涼しい顔をして、まるで花嫁を引き渡すかのように明人の後ろへと下がっていく。 何とまあ……由風らしい報告の仕方であることか。あまりにも由風らしくて、凛子はもう笑うしかない。 「んーん。いつまでもどこまでも、由風は由風だなーってしみじみ思っただけ」 そう言って笑うと、明人は何かを感じ取ったのか、「そっか」とだけ呟いて微笑んだ。 「凛子さーんっ ブーケブーケっ!」 すっかりスタンバッた三人娘他の女性陣が叫ぶ。 「はーいっ」 凛子の投げたブーケが、鮮やかな軌跡を描いて空に舞った。
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〔終〕
2013.1.25up
ようやく完結でございます。
ここまでお読みくださってありがとうございます。
けれどこのシリーズは「もう少しだけ続くんじゃ」(笑)
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