 
「すぴんあうと」って何?
【spin out】
「...を引き延ばす、話を長々とする、年月(一生)をぐずぐず費やす」
...ではありません。
エルフというゲームメーカーがあります。そのエルフが自社内の別ブランドとして
92年に設立したのがSilky’sというブランドでした。そのSilky’s
の中(なのかどうかはわからない、もしかしたら外注だったのかもしれないし)に
あったチームのひとつ、それが【すぴんあうと】だったのです。
「だった」と言っているのは今はもう存在しないからで、【すぴんあうと】は疎か
Silky’sも、今ではもうありません。Silky’sのいくつかのゲームは
Windowsに移植されましたが、それらは全てエルフから発売されたものです。
取り立てて有名というわけではなかったし、何かエポックメイキングな仕事をした
わけでもありません。でも、【すぴんあうと】が世に出したゲームは、たった2本
ではありますが、今でも私たちを魅了して止みません。それが、95年5月に発売
された【恋姫】と、96年8月に発売された【ビ・ヨンド】だったのです。
「恋姫」との出逢い
初めて【恋姫】と出会ったのは、発売から5ヶ月ほど経ったある秋の日。お前絶対
これ気に入ると思うからやってみろよっ、とそう宣った友人が私に手渡した1本の
ゲーム、それが【恋姫】でした。
当時Silky’sは私にとって、一番のお気に入りブランドでしたので、一応
チェックはしていたのですが、正直それほど惹かれるものがあったわけではなく
なんとなく買わないでいたというのが正直なところでした。その友人というのが
また「鮎帆研究の第一人者」を公言して憚らないやつでしたので、ある程度期待
して帰ってきたわけですが...
夏休みを利用して生まれ故郷に帰郷した主人公。平穏だが退屈な夏休みを送る
はずだった。しかし、覚えのない幼なじみの少女たちと再会することにより、
主人公の夏休みは...いや、人生は平凡の2文字とは無縁のものへ。
なぜなら、その少女たちは...
パソコンの電源を入れ、ゲームを起動した刹那、私は完全にその世界に入り込んで
しまっていたのです。まだゲームの本編すら始まっていないのに、ゲームを始めて
5分とたっていないのに、こんなにも甘く、せつない気持ちになるなんて...
そして本編が始まって、その想いは確信へと変わります。程度の違い、シチュエー
ションの違いはあるとしても、皆それぞれ、日本人ならこのような想いは深層心理
に持っているでしょう。
「夏の田舎」「幼なじみ」「清流のせせらぎ」「さびれた雑貨店」
「林泉の中の祠」「郷を見下ろす丘」「丘の上に立つ大きな樹」....
みな日本人に郷愁を思い起こさせるものばかりです。いわば日本人の原風景。
私の心は身体を離れ、山中奥深い、その村に確かにいました。
不思議だ...これはゲームの中の世界のはず..
なのに、この懐かしさ、暖かさは何なんだ?
まさか、これが私の深層心理の中の世界?
ならば、目の前にいる女の子たちは?
これも、私の深層心理が生み出したとでもいうのか?
パソコンの電源を入れたのが夕食後の午後7時、そして友人の電話で我にかえった
のが午前1時近く。約6時間、トイレにも行かなければ煙草の1本にも火を着けず
私の心は完全にセピア色の世界に吸い込まれていたわけです。もし、あのとき電話
がなかったら、そのまま「里」から帰って来られなかったかも....
友人の言葉を思い出す。 −お前絶対これ気に入ると思うから−
気に入る、なんて生やさしいもんじゃない。怖い。
自分でも気づいていない心の奥底が引き出されてしまいそうで、怖い。
今以上に、センチメンタリストになってしまいそうで、怖い。
何より、現世に戻ることを心が拒否してしまいそうで、怖い−
次の日、私は仕事を休みました。なんとか現世に戻って来られたとはいえ、とても
仕事が出来る状態ではありませんでした。
まず私はパソコンショップに走り、【恋姫】を2本買い求めました。1本はプレイ
用、もう1本は保存用という、まるでモデラーか何かのようなことをゲームでした
わけです。それも何の疑いもなく。
そして転げるように家に帰った私は、そのまま部屋に転がり込んで、パソコンの
電源を入れました。まるで強迫観念にとり憑かれたように...いや、ホントに
とり憑かれていたのでしょう。
「早く全てをクリアしなきゃ。明日世界が終わってしまうかもしれないっ!!!」
ホントにその日1日で全てクリアし、これで思い残すことはない、と眠りに就いた
のです。その晩の夢は、当然【恋姫】の夢でした。
「夢の中に出てくる思いびとは、そのひと自身のこと、あるいは思いびとに
対する夢主の感情や....」
次の日はなんとか出勤したものの、仕事に身が入らず、ぼーっとしている状態で、
そんな日が何日か続きました。それでも、徐々に現世にも慣れ、なんとか社会復帰
できたわけです。
もちろん、心の中にはいつも「里」があります。
パソコンの電源を入れなくても、いつでも「里」に行くことはできます。
そう、「里」は私の原風景なのです。
そして、心の中にはいつもみんながいます−
「ビ・ヨンド」との遭遇
そんな出逢いを経験してから約1年、私のもとにひとつのニュースが舞い込んで来ま
した。あの【すぴんあうと】がまたゲームを出す!!もちろん即座に反応した私は、
そのゲームについての情報を掻き集めました。
しかし掻き集めながら、一抹の不安を感じていたのです。
前作の【恋姫】が良すぎたから今度はダメじゃないかという心配?いいえ違います。
また今回もあまりにハマりすぎて、社会復帰出来なくなってしまうのではないか、と
いう不安です。
しかし今回のそのゲーム【ビ・ヨンド】の情報を集めているうちに、だんだん不安が
薄らいでいきました。
「ちょっとだけ空想科学シリーズ」。ひょんなことから魔王になってしまった
主人公。魔王としての自覚もないまま召使いの少女を連れて銀河を漂う、一大
すちゃらかムービー(なぜムービーなんだ)...
ぶっ...ぶははははっ!!なるほど、今回はそう来たか!!
いいだろういいだろう、せいぜい楽しませてもらうことにしよう。
目が覚めた時、自分の体が異様に重たいことに気が付いた主人公、そして自分が
誰なのかさえも思い出せない。しかし、最大のショックだったのは、自分が化け
物の姿をしていたということだった。しかも人々は私のことを魔王と呼んでいる
らしい....自分のことをマスターと呼ぶ謎の少女、レンと共に宇宙を流離う
ことになった魔王。しかし、平和な日々を過ごしたいと願う彼の願いとは裏腹に
行く先行く先で何故か騒ぎが発生し、多くの人が死に、星々は消えていく。一体
俺はどうしたらいいの?
というわけで、当初の不安はどこへやら、とりあえず発売日に入手、家に帰ってパソ
コンの電源を入れたわけです。ほほぅなるほど、主人公の「黒大将」が愛船「鳳凰」
を駆り、宇宙を彷徨うすちゃらかムービー(だからなぜムービーなんだ)。なかなか
初っ端から笑わせてくれる。【恋姫】のときのようなインパクトはないにしても、
これはこれで面白い。これなら普通に楽しめ....
甘かった。そこにはまた完全にゲームの世界に入り込んでしまった私がいたのです。
私の心は身体を離れ、宇宙を彷徨う「鳳凰」の中に確かに存在していたのです。
不思議だ...これはゲームの中の世界のはず..
それに、ここは「里」ではないはず..
なのに、この懐かしさ、暖かさは何なんだ?
まさか、これが私の深層心理の中の世界?
そこは「里」ではないはずなのです。
【恋姫】とは全く違う世界、全く違う雰囲気、全く違うキャラ、全く違うノリである。
にもかかわらず、あのときと同じモノを感じてしまうのです。雰囲気で言ったらその
「ほとんど」はお馬鹿なノリなのに、そのギャグによってでなく、その根底に流れる
モノを感じてごろごろと身悶えてしまうのです。
そしてゲーム史上における最大の確信犯的反則技(と個人的には思っている)を目の
当たりにし、私は完全に壊れ、当然次の日は、また仕事を休んでしまいました。
なぜこれほどまでに...
私自身、なぜこれほどまでにこのふたつのゲームにハマってしまったのかを、理論的に
説明することは出来ません。なぜなら、脳や前頭葉や前立腺が反応したわけではなく、
心が反応してしまったからです。しかも、今まで自分でも気づいてなかった部分までが
反応してしまったのです。断片的なパーツを箇条書きにしてとりあげることは出来ても
その全てを繋ぎ合わせて言い表す術を、今のところ私は持っていません。
もしかすると、このふたつのゲームを作ったひと(主に設定やシナリオを担当された)
は、私の分身なのかもしれません。いや、私がそのひとの分身なのかも。そして、その
ひとは心の中にあるものを表現する術をもっていたのです。そう考えた方が、今の私に
とってはしっくりきます。
いつか私も自分の心の内を表現する術を手に入れるかもしれません。そのときは、それ
ぞれのパーツがカチカチと音をたてて繋がっていく、あの何ともいえない感覚を味わう
ことができるでしょう。それがいつになるかはわかりませんが...
当時の【すぴんあうと】のメンバーのうち何人かは今でも業界内にいて、結構評判の
高いゲームを作ったという話もありますが、どれも噂の域を出ず、また確認する術も
ありません。
でも、それでいい、と思っています。
神話や伝説は本来、その主人公が存在しているうちは、神話や伝説にはなり得ないもの
なのです。確かにある出来事があって、それが希有なことであれば、畏敬や憧憬や偶像
の念は生じるでしょう。しかしその主人公が存在しているうちは単なる出来事であって
それを上回ることを達成することも充分考えられるわけです。しかしその主人公が姿を
消せば、それ以上のことはもう望むべくもなくなって、そこに哀惜の念が加わることに
より、神話や伝説へと昇華するものなのです。
私の中で、【すぴんあうと】という存在は、もはやそういうものになっているのです。
 
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