よく晴れた夏の朝。
企画課の吉村孝太郎は、いつもとほぼ同じ、余裕で始業に間に合う時間に会社の玄関に到着していた。そのままいつものように中に入り、ほぼ直線の廊下を歩く。
「亮子せんぱーいっ おはようございまーすっ」
廊下を歩くうち、背後から聞こえてきた声にハッとする。まるで鈴を転がすような涼やかなその声は、昨年入社した新入社員の中でもピカイチと言われるほどの、「総務部のユッキーナ」こと千葉優樹菜のものだったからだ。
「おはよう、優樹菜ちゃん。浮かれちゃって、どうしたの?」
答えるその声は、吉村と同じ企画課で同期の斉田亮子のもの。はっきり言って、そちらは半ばどうでもよいのだ。
「昨日、クッキー焼いたんですけど、結構うまくできたから、お昼休みに梓先輩も一緒に食べましょ♪」
「えー、優樹菜ちゃんが作ったの? すごいじゃん」
「結構簡単なんですよ? よかったら、今度梓先輩も誘って一緒に作りません?」
「んー、あたしも梓も、どうせ作るならお菓子より酒のつまみのほうがいいなあ」
「ふふっ 先輩たちらしい」
くすくすくす。ああ、やはり可愛いなあと吉村は思う。声だけではない。優樹菜は容姿も性格も、そこらへんの女性よりよっぽど可愛らしいのだ。そう思う男はやはり多いらしく、吉村以外の男性社員が何人もアプローチをかけて、ことごとく玉砕しているという。「ユッキーナの本命とはいったい!?」というのが、 昨年から変わらず男たちの間で噂される事柄のひとつであったりした。
「斉田、昨日の書類なんだけどさ」
始業直前、自分のデスクについた亮子の元に近寄っていった吉村は、実にさりげなく仕事の話から世間話に移行していくことに成功させた。
「…ところで。さっき聞こえてきたんだけどさ、お前と坂本って、総務の千葉さんと仲いいのか?」
自分用にあてがわれているパソコンが起動し終えるのを待っていた亮子が、視線を書類に落としたままで答える。
「あ、うん。あたしらとは合わないかと思ってたんだけど、あのコすっごく素直でいいコでね。もう妹みたいに可愛いんだ」
あたし妹いないから、よけいかもね。そう続ける亮子に、更に細心の注意をはらってより一層さりげなさを装って、誘いの言葉を口にする。
「今度さ、みんなで飲みに行かないか? 坂本とか他の同期や後輩とか、よかったら…あのコも誘ってさ」
それを聞いた瞬間、亮子が一瞬驚いたように顔を上げて。それからすぐに、にやりと人の悪い笑みを浮かべて、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で言葉を発した。
「あー、無理無理。あのコには、あんたたちが束になってもかなわない大本命がいるから。どんなに頑張っても絶対落とせないわよ、諦めなさいな」
次の瞬間、吉村は普段の冷静さも忘れ、カッとなって答えていた。
「なっ 何でお前にそこまでわかるんだよっ!? やってみなきゃわからないじゃないかっ」
語るに落ちるとはこのことだということに、幸か不幸か吉村自身は気付いていない。
「わかるの、本人に訊くまでもなくね。それより、始業のチャイム鳴ったし、課長の雷が落ちる前に自分のデスクに戻ったほうがいいわよ」
悔しいが、言われた通りなので吉村はすごすごと自分のデスクに戻る。
思い返せば、亮子という女は最初からこんな感じだった。初めて会ったのはこの会社に入社して、共に研修を受けていた時で。
『吉村…「こうたろう」って名前なの? あなた』
自己紹介の後の自由時間に、あちらから声をかけてきたのが始まりだった。周囲の同じ新入社員の男どもに、他の人間には気づかれないようにニヤニヤ顔で肘でつつかれたりして、気をよくしたことを覚えている。昔から、女には不自由したことがなかったから─────この甘いマスクと均整のとれたスタイルに加え、並の男には真似のできないほどのファッションセンスと巧みな話術を携えているとなれば、いままで落とせない女などいなかったのだ。だからこの時も、自慢の笑顔をたたえながら振り返ったのだけど。
『そうだよ。かの小泉孝太郎と同じ字だよ』
自信満々で吉村が答えると同時に、その相手─────亮子は頬を染めるどころか露骨に顔をしかめ、一気に急下降したらしいテンションを隠すことなく、不機嫌そのものの声で言いきったのだ。
『なあんだ。あんな若造と一緒かあ……里見浩太朗と同じかと思って喜んだのにー』
里見浩太朗!? 予想もしなかった相手の名を出され、吉村だけでなく周囲の同期たちも驚きを隠せない表情で彼女を見た。
『あっ ごめんねえ。このコ時代劇ファンだからさあ、最近の俳優とかには興味ないのよね』
同じく同期で後に亮子の親友となる梓がフォローをするが、もはや吉村の耳には届いていなかった。こんな屈辱は、生まれて初めての経験だったからだ。いままで、吉村がその気になって落とせない女などほとんどいなかったというのに……。
いったい何なんだ、この女は!?
それが吉村の、亮子への第一印象だった。その後、まさか同じ企画課に配属されるとは、夢にも思わなかったというのに。亮子は容姿と同じように自信があった仕事でさえも、吉村を軽く上回る結果をあっさりと出し、更に彼女本人はがむしゃらにやっている訳でもなく自然体でやっているものだから、吉村の負けず嫌いの性格に火がついたのは言うまでもない。
こいつにだけは絶対負けたくないと、勝手に吉村のライバルに認定されてしまったが、亮子本人はどこ吹く風だ。
「……どう見ても、好きなコにつっかかってる小学生男児よねえ」
昼休みになってもなかなか食堂にやってこない亮子に、わざわざ企画課にまで覗きに来た梓が呟けば。
「アレ、斉田さんわかっててやってるんですかねえ」
イマイチふたりの関係がわかっていない沢村が続け。
「ていうか、完全わかっててやってるでしょ、亮子先輩」
岡田と付き合い始めてから、精神的に格段に成長した優樹菜が答え。
「まあ、微笑ましいじゃないか」
温かい目で後輩たちを見守る岡田がうまくまとめる。
吉村の自覚は、まだまだ先のようであった…………。
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