「遅れてすみません〜……」 「広田、どうした? もうホームルームも終わるぞ」 「駅の階段で足を踏み外しちゃって、足首をくじいちゃいまして……保健室に寄ってましたー」 恥ずかしさに耐えながらそれだけ告げると、不思議そうな顔をしていた教師のそれがとたんに心配そうな顔に変わった。 「階段って…他にケガはないのか? 大丈夫なのか?」 「はい…残り、二、三段のところだったので、他は軽い擦り傷ぐらいです」 「ならいいけど……しっかしお前も器用だなあ。残り二、三段のところで踏み外して捻挫?って、滅多にできない体験だぞ?」 教師のその声に、教室中がどっとわいた。 「まあいい、とりあえず席に着きなさい」 「はい……」 くじいた右足を引きずりながら、ゆっくり歩いて自分の席に着く。途中、からかいの声を上げてくる男子の声を黙殺しながら。席に着くと同時に、斜め前の席の親友の歩が声をかけてきた。 「幸、大丈夫? 朝から災難だったね」 その声に笑顔で応えながら、鞄の中身を出し始める。 そう。今日は朝からついていなかった。目覚ましが鳴らなかったせいで、母親に声をかけられるまで起きられなくて、非常にせわしない中で身支度を済ませながら朝食をかっこむ羽目になってしまったし、走って走って何とかギリギリでいつもの電車に乗れたと思ってホッとしたのも束の間、学校の最寄り駅の階段を下りている途中で足を踏み外してこんなことになるし……怖くて振り返ることもできないけれど、さっきの笑い声の大きさから察するに、一番後ろの席に座っているはずの紺野隆弘も笑っていたに違いない。高校に入学して以来、ずっと好意を抱いていた相手に笑われるなんて、悲しいことこの上ない。 足のせいで体育を見学していれば、他の生徒が打ち損じたバレーボールが顔面や頭部に飛んでくるわ────それが決して故意ではないことは、相手の自分への普段の接し方とその時の状況を見れば、火を見るより明らかだった────昼休みには手提げバッグに入れていたはずの弁当を入れ忘れていたことに気付いて購買部に急ぐが、出遅れたせいでお世辞にも美味しいとはいえないパンばかり売れ残っていて、我慢して食べる羽目になるわ、あまりの不運ぶりに同情してくれた友人がジュースを奢ってくれようとしたが、好きなものに限って売り切れていたり、もう散々だった。 こんな日は、さっさと帰って寝てしまうに限る。そう幸が思ったとしても、仕方のないことといえよう。不幸中の幸いというか何というか、幸は部活に入っていなかったので、部活に向かう友人たちと別れ、ゆっくりと歩きだす。駅までは十五分ほど歩かなければならないが、くじいた右足を気をつけながら歩けば何とかなるので、覚悟を決めて歩を進める。自宅の最寄り駅に着いてから家に電話をして、母親に迎えに来てもらえばいいだろうと思いながら、今日一日の不運を思い出しながらため息をついたその瞬間。 キキッと小さなブレーキ音を立てて、幸の数メートル前で自転車が止まる気配。俯いていたので、自転車が近付いているなんて まったく気付かなかった。ほとんど無意識に顔を上げると、片足を地面について自転車を支えながらこちらを見ていたのは。今日一日、情けない姿を見られたくなくてできるだけそちらを見ないようにしていた、クラスメートの紺野隆弘その人だった。 「─────紺野くん?」 驚く心そのままに、その名を唇に乗せる。 「広田の家って、ここから電車で一駅くらい先だったよな」 「え? う、うん」 「その足じゃ、駅まで行くのも辛いだろ。後ろ乗れよ。送ってやる」 あまりにも信じられないことを告げられて、一瞬何を言われたのかわからなかった。 「えっ いいよ、悪いよっ」 「気にすんな。俺も今日は、あっちのほうに用があったんだ。ついでだから、送ってやる」 そこまで言われると、あまり断り続けるのも悪い気がしてきて、ゆっくりと、だが確実に紺野の自転車に近付いていく。「貸せ」 と言われて鞄と手提げバッグを渡すと、紺野は無造作に自分の前方のカゴにそれを入れた。そのカゴの中に紺野自身の鞄が入っていないことに気付いて、幸は何気なくそのことを訊いてみた。そのとたん、紺野が一瞬動揺したように視線をそらして、それから何ごともなかったかのように、 「ああ、邪魔だから家に置いてきた。俺んち、ここから結構近いからな」 と答える。 「そうなんだ」 その言葉に納得して、それ以上考えることをやめてしまったから、紺野が普段は後ろに荷台などない自転車に乗っていることも、幸は思い出す事ができなかった。 「そんなことより、早く乗れよ。早くしないと日が暮れちまうぞ」 言われてからハッとして、後ろの荷台にそっと腰を下ろす。バランスが悪くなることはわかっていたが、制服のミニスカートをはいているために横座りで乗るしかなかった幸に、紺野は何も言わなかった。 「どうでもいいけど、ちゃんとつかまってないと危ないぞ?」 そう言われてどうしたものかと悩んだけれど、紺野に両手首を掴まれて、彼の腰に回されてしまったので幸はもうパニックに陥ってしまって、こちらを振り返りもしない紺野の顔が赤くなっていることに気付けなかった。 「行くぞ」 短く告げて、自転車が動き出したので、慌てて紺野の腰に回した腕に力を入れる。さすがに抱きつくことはできなくて、身体同士は少し間を空けてつかまることしかできなかったけれど。 「足が治るまで─────」 ペダルをこぎながら、紺野がぽつりと呟く。 「え?」 「朝と帰りと……駅と学校の往復、後ろに乗せてってやるよ。いくら近いっつっても、その足じゃ大変だろ」 「…っ!」 「広田が『嫌だ』っつっても俺はもう決めたからな。文句は聞かないからなっ」 驚いてその顔────といっても後頭部だが────を見上げると、紺野は耳まで真っ赤になっていて……幸は驚きつつも、嬉しい気持ちが込み上げてくるのを止めることができなかった。 「あ…ありがとう…………」
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2012.3.8up
某所で発表していたSSです。
ふたりのその後はどうなるのか?
どうぞお好きに想像なさってください。
背景素材「空に咲く花」さま