〔14〕





 夏休みも終わり、少しずつ日常生活に戻ろうとしていたある日の朝。

 奈美が操作していたデジカメの画像を見せてもらっていた珠美は、その画像の中の犬の姿を見て思わず顔をほころばせてしまった。

「やだ可愛いーっ え、この子奈美ちゃんの家の子なの?」

「うん、雑種なんだけどね。夏休みの間いつもより構ってたから、新学期になって時間帯が元に戻ったら寂しそうにしててちょっと可哀想になっちゃった。あ、もうちょっとよく見てみる?」

「いいの? うわー正面から見るともっと可愛いーっ おとなしいというかわかっててちゃんと座ってるように見えるー。賢そうー」

 もともと動物は好きなほうなので、あまりに可愛い生き物を見た珠美は少々興奮が過ぎて、手が滑ってそばにあったボタンに触れてしまった。画面の中の画像が別のものに移り変わる。

「あ、ごめんね、変なとこ触っちゃったみたいで画像変わっちゃった…」

「ああ大丈夫。次の画像に移っただけだから」

 奈美が見ていたデジカメの画像を横目で見た珠美は、あれ、と思う。

「あれ、わんちゃんと一緒に映ってるの近藤くん…? でも何となくだけど少しいつもと違って見えるような…?」

 すると、とたんに奈美が目に見えて慌てだした気がした。

「あっ こ、これは…っ」

「ああそれ、うちの兄貴。兄貴とこいつ、俺らが中等部の頃からつきあってっから」

 唐突な声に顔を上げると、いつの間に登校してきたのか何でもないことのようにけろりとした顔で告げる近藤が立っていた。

「あれ近藤くん…って、『うちの兄貴』って何!? 奈美ちゃん彼氏いるとは聞いてたけど、それが近藤くんのお兄さんだなんて聞いてないよっっ」

「あー…いや、そのー

 気恥ずかしいのか奈美は視線をあちこちに泳がせる。

「言われてみれば、ホント近藤くんとよく似てる。近藤くんの1、2年後って感じ」

「それよく言われるんだよなー」

 と、近藤は他人事のように軽く言っていたのだけど。

「…何よ。この際だから近藤くんの恥ずかしい話もバラしてやるーっ はい珠美ちゃんこれ見て」

「なに?」

 見ると奈美のデジカメには、中学生くらいに見える自分たちより少し幼く見える可愛らしい少女といつもの少しクールぶってる近藤とは違って見える、何となく微笑ましく見える微笑を浮かべて相手の少女を隣から見つめる近藤の姿が映っていた。

うわっ お前それいつの間にっ」

「これ近藤くん…よね? 隣の女の子は誰? ずいぶん親しそうに見えるけど」

「これねー、うちの妹。近藤くんの彼女ー」

 慌てふためく近藤とは対照的に、奈美はいたずらっぽい笑顔を浮かべている。

「え、じゃあ兄姉同士と弟妹同士でつきあってるの!?

「まあ…そういうことになるな」

「あれ越野知らなかったのか?」

「俺らの間じゃ有名な話だったんだけどって中等部の頃を知らなきゃ知らなくても無理ないかー」

「すごーい、話にはよく聞くけど実際にあるもんなんだー

「…で、それはそれとして。珠美ちゃん、よかったらうちの犬に直接会いにくる? 人見知りしないからすぐに懐くと思うよ」

 奈美のその言葉に、珠美の中に一瞬のうちにある出来事が走馬燈のようによみがえって…消えた。

「ご、ごめん……そう言ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、私ちょっと…犬にはトラウマがあって。小さい犬ならまだ平気なんだけど、ある程度以上大きい犬は理屈じゃなくて考えるより先に身体がすくんじゃって。ちょっと、近づけないんだ

 それを聞いた奈美がとたんに罪悪感を思わせる色を瞳に宿したので、珠美は慌てて続ける。

「あっ でも写真とか動画は見るの大好きだから、そういうので見せてもらえるとすごく嬉しいっ だからあんまり気にしないでっっ」

 奈美に悪気がないのは重々わかっているから、珠美は言葉を重ね続ける。けれど、世の中には悪意を平気で他人に向けられる者がいることを、この時の珠美はすっかり失念していたのであった。




            *        *        *




 発端である事件が起きたのは、約七年前、珠美や潮が小学校の三年生の頃だった。

 近所にハリーという名の大型犬を飼っている家があり、飼い主家族も良識のある人々でハリーは近所でも評判の番犬だった。だから珠美たち近所の子どもたちもハリーが大好きで、その家の前を通る時は名前を呼びかけたり、飼い主が散歩に連れて出た時には飼い主の許可を得てから撫でてあげたりして可愛がっていたのだけれど。

 ある時、その前にハリーがたまたま通りかかったその近辺の犬ではない飼い犬と出くわして、互いにそりが合わなかったのか機嫌が悪くなった時があった。それを飼い主もわかっていたので、いつものように近くに寄ってくる子どもたちに「今日は近寄らないでね」と優しく告げていたのだが、いつの世にも程度の差はあれど悪ガキというものはいるものである。滅多になく気が立っているハリーが珍しかったのか紙くずなどを投げつけたのだ。飼い主がすぐさま制止の言葉を投げかけるが、その時には既に遅く紙くずのいくつかがハリーに当たってしまっていた。そんな状態だったハリーは激高し、飼い主がリードを握っていたにも関わらずそれを振り切って、唸り声を上げながら悪ガキたちに突進してしまったのだ!

「わああっ!!

「ハリー、止まれ!!

 興奮しきったハリーには飼い主の声も届かなく、更に悪ガキというものは逃げ足が早いと相場が決まっていて、悪ガキたちが蜘蛛の子を散らすように逃げた向こう側にいた少女たちの集団へと突っ込んでいこうとする。かん高い悲鳴が上がる中、ハリーと少女たちの間に立ちふさがるように飛び込んだ人影があった。

「止まれ、ハリーっ!」

 少女たちの中でも中心人物として名高い当時の珠美だった。珠美はその気性から、ものごころついてからというものどちらかというと少女たちより少年たちと遊ぶことが多かったが、決して少女たちと仲がよくない訳ではなかった。むしろ少女ながらに少年たちにひけをとらない運動神経と弱い者いじめを絶対に許さない正義感から、少女たちからも慕われる立場だった。だからこの時も少女たちを庇うように立ちはだかったのだが、この時のハリーには普段可愛がってくれている相手のことなど認識できるはずもなく。少女や居合わせた女性の悲鳴が響き渡った、珠美の細い腕がハリーの大きな口の中に消えかけていたまさにその瞬間。誰もが最悪の事態を想定していたその時、変化が起こった。

「────────!!

 いつまでも訪れない痛みに不思議に思って珠美が不思議に思って目を開けたその眼前で、珠美からゆっくり一歩ずつ退いていくハリーの姿があった。

「…………え……?」

「珠美ちゃんっ!!

 そこに、覆い被さるように抱きついてくる姉の光枝の身体。

「珠美ちゃん大丈夫!? 怪我してないっ!? どこか痛いところはっ!?

 涙ぐんでたたみかけるように問うてくる光枝の表情は、いつも穏やかに微笑んでいる姉のそれとは全然違っていて。

「…あ、うん。どこも痛くない。多分咬まれてない……

ハリーに向かって掲げていた腕を見ても、どこにも傷ひとつ見えない。

「たっ 珠美ちゃんっ よかった、怖かったよーっ!!

「大丈夫!? ごめんね、ありがとうーっ」

 背後に庇っていた少女たちが一斉に抱きついてきたのでもみくちゃになりながら、珠美は何があったのかわからないまま辺りを見回す。すると、いくらか体勢を崩していたハリーの飼い主をその両脇や後ろから支えながら、安心したようにほうと息をつく潮やその仲間たちと目が合った。

「潮くんがおじさんに『犬笛!』って言ってくれたの。私も忘れてたんだけど、おじさんいつも犬笛を持ってるからそれでもハリーに言うこと聞かせられるっていつも言っていたのよね。それがなかったらどうなっていたかっ」

 そう言われれば、そんなことを聞いたことがあった。犬笛の周波数は人間の耳には聞こえないものだから、何度吹いてるのを聞いてもまったくわからなかったけれど。

「そ、なんだ…潮もおじさんもみんなもありがとなー……

 飼い主の腕にリードを幾重にも巻き付けられて伏せているハリーからは、先ほどまでの猛獣とも見紛うほどの恐ろしい形相はどこにも見えない。飼い主に叱られてうなだれているさまは、いつもの凛々しいハリーより一層情けなく見えるほどだ。

「おじさん、そんなにハリーを叱らないであげてよ…ハリーが悪い訳じゃないんだからさー……

 そう言って立ち上がり、ハリーの元へ向かおうとした珠美だったが、歩き出そうとした足が一歩も前に進めないことに気がついた。

「え?」

 それどころか、足が震えて立ち上がることすらできない。脳裏に浮かぶのは、初めて見たハリーの恐ろしい形相。先ほどは考えるより先に咄嗟に飛び出してしまったけれど、いま思い返すと恐怖以外の感情が出てこない。

「珠美ちゃん?」

 怪訝そうな姉の声も聞こえてくるけれど、何も答えることができない。

 なんで? なんで? なんで?

 珠美の瞳から大粒の涙があふれだす。

 なんで? 泣きたくなんかないのに。言葉ひとつ発することもできぬ間に、珠美の喉から嗚咽がもれる。

「…ひっ えぐっ」

 そのへんの女の子のように、泣き喚きたくなんかないのに。けれど、嗚咽と涙は止まらない。

「ふ…ふええ…」

 珠美の涙につられたのかそばにいた少女たちだけでなく光枝の瞳からも大粒の涙がこぼれだす。

「大丈夫だから…っ もう大丈夫だからね、珠美ちゃんっ」

 光枝に抱き締められ、誰かが呼んでくれた母親が駆けつけるまで、珠美の涙は止まることはなかった……

 そしてその後。ハリーの飼い主一家やハリーを興奮させた子どもの親まで一緒に詫びの品を持ってそれぞれに謝罪に来たが、「誰も悪気はなかったんだから」と珠美は謝罪を受け容れるのみですべてを許した。両親も珠美本人がそう言うならと珠美のしたいようにさせてくれた。それでも咬まれかけた恐怖はなかなか消えることはなく、何度かカウンセラーの元に足を運んだりはしたが。

 ハリーは珠美の懇願で処分は免れたものの、「また同じようなことが起こったらいけないから」と飼い主宅の庭のより内側─────家の前を通る子どもたちには決して届かないところに犬小屋を移され、散歩もできるだけ人気のないルートで夜させることに変更されてしまった。誰にとっても後味の悪い結果になってしまったことは一生忘れられそうにない。それ以来犬が怖くなってしまった珠美ですら、いまでも胸が痛む思い出だ。

 そんな珠美の知らぬところで、着々とよろしくない計画が立てられていたことを知るのは、数日後。


「ねえホントに大丈夫?」

「大丈夫だって。このジャックはちゃんとプロにしつけしてもらった犬だし、懐いてる人の命令はちゃんと聞くんだから。親戚のおばさんごまかして借りてくるのはちょっと面倒だったけどさ。怪我なんてさせる前にちゃんと止めるから大丈夫よ」

 三、四人固まっている女生徒たちの足下、茂みに隠れるような形でおとなしくしている大型犬の姿があることに、下校中の生徒たちは誰一人気付く者はいない。

「あっ 来たよ!」

 そこにやってきたのは、由梨香と早苗と共に下校しようとしていた珠美。何も知らない珠美たちのほうを指差し、犬の首輪を掴んでいた少女が「Go!」と小さく号令を出したとたん、走り出す犬。

「えっ?」

「わあっ!?

 突如現れて走り出した大型犬に、生徒たちが驚きの声を上げる。

「なに?」

 思わずそちらを見た珠美の視界に入るのは、まっすぐこちらに向かって走ってくる大型犬……ハリーとは毛色も犬種も違うけれど、一瞬にして意識が数年前の記憶に引き戻される。

「───────!!

 珠美の喉から声にならない悲鳴が迸った。




              *        *       *




「…………

 どこかから珠美の悲鳴が聞こえた気がして、昇降口を出てばかりの潮は首をかしげる。昔もそうだったが、いまとなっては世間も知って女性の強かさも兼ね備えた珠美が悲鳴を上げるなんてことがある訳ないと思っていたからだ。しかしそんな考えは、前方を歩いていた見知らぬ生徒たちの声によって一瞬で脳裏から消え失せた。

「どうしたんだ? ヤケに騒がしいな」

「何か知らねえけどでかい犬がどっからか走ってきて、一年の女子につきまとってんだと!」

「咬まれたのか!?

「それはないらしいけど、その女子がパニック起こしちまって大変らしいぜ!」

 珠美の声と大きい犬、というバラバラの要素に、潮の中で七年前の記憶が揺り起こされる。

 まさか!?

 考えるより早く潮の身体は動き出していた。

「いやっ いやっ こっちにこないでっ!」

「珠美ちゃん落ち着いてっ」

「このっ くんなバカ犬!」

 多数の生徒が見守る中、うずくまってしまった珠美を抱き締める早苗と、みずからの鞄を振り回して犬を近づけないようにしている由梨香の姿が潮の目にまず飛び込んできた。

「下がってろ!」

 由梨香に言い置いて、彼女と犬の間に割り込むように走り込む。同じ咬まれるにしても女子が咬まれるより自分が咬まれたほうが数倍いい。

 突然の闖入者に更に興奮したのか犬がより大きい咆哮を上げた、その時。

「ジャック、ストップ!!

 喧噪を突き破るように響いた少女の鋭い声。その声を聞いたとたん、犬は先ほどまでの勢いはどこへやら、急激に静まっていく。

!?

 現れたのは、珠美たちと同じ制服をまとった見知らぬ少女たち。

「……お前らの犬か?」

「正確には違うけど、親戚の家の……

 どことなくおどおどとして答える少女の様子に、潮はひらめくものがあった。

「…一声で言うこと聞かせるなんて、相当ちゃんとしつけしてあるんだな」

 何気なさを装って言葉を続けると、少女は力を得たように意気揚々と語り始めた。

「まあね、ジャックはホントの飼い主家族に負けないくらい私には懐いてて……

 それを遮るように潮は鋭い言葉を投げつける。

「そんな従順な犬を、あえてこいつにけしかけたのか。こいつが犬に対してかなり深刻なトラウマを抱えているのを知ってて」

 珠美に視線を向けてから向き直りつつずばりと言ってのけた潮に、少女たちはようやく自分たちがしたことに気づいたらしい。先ほどまでの得意満面な表情から一瞬にして蒼白なそれに変わる。

「トラウマだって?」

「マジ?」

「そんな人間にあんなすごい勢いで犬を向かわせたってことか?」

「やだ信じられない…いくら気に入らないからってそこまでする?」

 周囲からの白い視線や責めるようなざわめきに、少女たちはもう言葉も出ないようだ。

「えーと…悪い、お前らのどっちか、保健室に行ってベッドを用意してもらってくれ。もう一人は、多分まだ教室あたりにいるはずだから、こいつの姉貴を呼んできてくれないか?」

 由梨香と早苗に向かってそう告げると、二人は即座に行動を開始すべく体勢を改めた。

「了解!」

「広崎くんは珠美ちゃんのほうをお願い!」

 珠美の荷物も持って、二人は即座に走り出す。ほんのわずかな間だけどちらがどちらに向かうか相談した後、それぞれの目的地に向かって走り出した。それを見届けた潮は、何も言えないままの少女たちに目もくれず片膝を落として、うずくまったままの珠美に声をかける。

「…珠美。珠美、聞こえるか? もう犬はおとなしくなった、安心しろ。あの時と同じように誰も怪我してない。もう大丈夫だ、ゆっくり顔を上げてみろ」

 その声に反応してか、珠美がゆっくり身じろぎをした。

「うし…お……?」

「そうだ。もう何も怖いものはないから安心しろ」

 乱れてぐしゃぐしゃになった髪に気づく余裕もないのか、かすれた声で潮の名を繰り返しながら、珠美が潮に目を向けた。どこか焦点の合っていなかった瞳が、少しずつ光を取り戻していくのを見ながら、潮は内心で少しだけ安心する。普段の挑戦的とさえいえる表情と違い、怯えきった瞳と涙で濡れた頬を晒しながら潮の瞳をまっすぐ見つめる珠美に、何ともいえない安堵感を覚える。他の誰でもない自分の声に、珠美が少しずつ自分を取り戻していく様子が、何故か嬉しかったのだ。

「とりあえず、保健室にお前の友達に行ってもらったから、そっちで少し休もう。…立てるか?」

 珠美に手を貸しながらゆっくり立ち上がろうとするが、珠美の脚は力が入らないのかぴくりと動きはするがそれ以上の動きを見せることはなかった。

「あ、あれ…? 何か、脚が動かない……

 本人も戸惑っているようで声にも覇気がない。


「わかった、そのままじっとしてろ」

 言うと同時に珠美の背と両足の膝の裏に手を差し入れ、少しずつ力を込めながら立ち上がる。

「えっ ちょっと潮っ!?

「おとなしくしてろ、暴れると落とすかも知れないぞ」

 そう言ってやると、珠美はしようとしかけた抵抗をやめておとなしくなった。

「よし。そしたら両手を俺の首に回してその後ろで組んでろ。そのほうがバランスがよくなるからな」

「う、ん……

 言われるがままの行動をとる珠美に頷いてから、潮は足を一歩踏み出した。

「広崎、お前の鞄は俺が持ってってやるよ」

 近くにいた同じクラスの男子の声に軽く振り向いて笑みを見せる。

「悪いな、頼むよ」

「広崎が笑った…

「珍しい。これから雨でも降るんじゃね?」

 好き勝手なことを言うギャラリーの声をあえて聞こえないふりをして、まっすぐに保健室へと歩を進める。昔は珠美を支えることくらいしかできなかった自分だが、いまでは珠美の身体を抱えて歩くことなど造作もない。それが何故だか嬉しくて、あやうく頬がゆるみかけるのを慌てて引き締める。

「腰が抜けちゃったのかしらね。少しここで休んでから、三年生のお姉さんが来たら親御さんにも車とかで迎えに来てもらって帰りなさい。必要があれば病院に寄ったほうがいいかもね」

 保健医の言葉を聞きながら珠美の身体をベッドの上に下ろすと、由梨香がスカートの乱れを直したり上掛けをその上に掛けてやったりして、甲斐甲斐しく世話を焼く。

「ごめんね、珠美ちゃん…光枝先輩の教室に行ったんだけど、いまちょうど進路指導室で先生と話してるとこらしくって、広崎くんのお兄さんが伝言してあげるって言ってくれたからお願いしてきちゃったの……

 自分のせいでは決してないのに、早苗が申し訳なさそうに視線を下げた。

「気にしないで、おねえも受験生だし、あたしのことにばっか構ってられないんだし。翔先輩が伝言してくれるならそれで十分よ。二人ともありがとうね、あたしならおねえがくるまでの辛抱だから、先に帰っててくれて大丈夫よ」

 すっかり平静を取り戻して珠美が笑う。

「でも……

 まだ心配そうな早苗の言葉を遮ったのは、潮だった。

「俺が代表して残るから。うちの兄貴が伝言を引き受けたんなら、責任持って俺が残るのが筋だろ」

「え…

「早苗、広崎くんがそう言うなら大丈夫よ。珠美、ならあたしたちは帰るから。絶対無理しちゃダメだかんね?」

 驚きに目をみはる珠美と早苗に有無を言わせぬ勢いで言いきったのは由梨香で。自分の鞄と早苗の鞄を両手に持って、早苗を促す。

「そういう訳だから、広崎くんあとはよろしくね」

「ちょっ 由梨香!?

「あとは広崎兄弟におまかせ〜」

 由梨香と目を見交わした早苗には何か伝わったようで、「そういうことなら私も帰るわね、広崎くんあとはお願い」

 そう言って潮に小さい何かを渡してから、早苗は由梨香と共にほんとうに帰ってしまった。あとには、ベッドで横たわる珠美とそばの椅子に腰を下ろす潮、それと机に向かって事務処理を再開した保健医だけが残される。

「ちょ…普通こんな状態のあたしを残してマジで帰っちゃう?」

「車でもない限り、何人いたって同じ事だろうが」

 早苗から受け取ったものの封を開け、中から取り出した薄いものをそっと珠美の頬にあてると、眼下から「うひゃあっ」と悲鳴にも似た声が聞こえた。

「なに!?

「さっきお前の友達が渡していったウエットティッシュ。顔、すごいことになってるぞ、それで拭いとけ」

「あ、うん…

 めずらしくしおらしくなって、珠美は言われるままに顔を拭く。そのゴミを受け取ってゴミ箱に捨ててから、潮は鞄から文庫本を出して、珠美が寝ているベッドから少し離れたところに椅子を引いた。

「俺はこっちで本読んでるから、姉貴が来るまで少し休んどけ。いいですよね? 先生」

「もちろん構わないわよ」

 保険医の言葉に「ほら」とでも言いたげに指で示して、珠美に背を向けながら本を広げる。正直内容は頭に入らなかったけれど。

 そのうち、五分もしないうちに小さな寝息が聞こえてきたので、そっと椅子の位置を戻してその寝顔を見つめる。目の下から頬にかけての涙の跡が痛々しい。

 今回も前回も、取り返しのつかないことになる前に何とか寸前で助けられたけれど。自分は、大事だと思う相手をいつも助けられないなと思う。一人目は、言わずと知れた母親その人だ。どうすればいい? どうすれば大事なひとを護りきれる?

 潮の内心にくすぶっていたいままで形になっていなかった考えが、ゆっくりと頭をもたげ始めた────────





    


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2017.11.20up

少しずつ寄り添っていく心。
ふたりの向かう先は…?

背景素材「空に咲く花」さま