〔12〕




 それから。


「…はたから見たらまとまったかのように見えるけど、実はそうでもないのよね」

 校舎の廊下の窓から校庭の歩道を通って帰っていくふたりの後ろ姿を眺めながら、由梨香が呟く。

「あたしもクラスの子に訊かれたわよ、『あのふたりってつきあい始めたのか』って」

 もちろんそうではないと説明しておいたが、あれは納得していないなとこそっと思ったことを、珠美は思い出しながら答える。

「つきあっていないとはいえ、あの早苗が前向きに考え始めたんだから、時間の問題じゃない?」

 視線の先では、まだ少しぎこちない様子で池田と話していた早苗が、顔を赤くして慌てた様子で何か言っているようなので、何かからかうようなことを池田が言ったのだろうなと珠美と由梨香は判断を下す。何せ早苗という少女は少々内気な上に人見知りも激しいので、つい最近までただの友達と思っていた池田に恋心を持たれていると知っただけで内心は激しくテンパっている状態に違いない。だからこそ池田は、緊張を解すためにあえて恋愛事とはまるっきり関係のない軽い冗談を飛ばしたのだろう。そういう細かい気遣いができる相手なのだ、あの池田という人物は。珠美も由梨香も、早苗と同じだけの年月を彼とその幼なじみといっていい橋本と共に過ごしてきたので、わかることだ。

 あの後、早苗は「とりあえず、友達として、からやり直してもいい?」と、勇気を振り絞ったのがありありとわかる様子で提案してみせたのだ。それは、池田の気持ちを知らなかった頃のそれではなく、池田の気持ちを認識した上で、という意味でのことなので、あの早苗の性格してみればこれは大きな進歩といえるだろう。もちろん池田にこれを拒否する理由はなく、喜んでそれを受け容れた結果が現在の状態であった。

「吉澤くんとやらには気の毒だけど、あたしは直接は知らないし、どっちかっていうと池やんを応援したいし……まあそれなりにモテるみたいだし、すぐ彼女できるんじゃない? できればあの連中以外のコとつきあってほしいけど」

 あの連中、とは先日早苗に理不尽な文句を言おうとしてやってきて、珠美や由梨香がおちょくり?倒して最終的には池田が退散させた連中のことだ。更にいうと、吉澤には早苗自身の口からちゃんと断りの返事を告げている。

「言えてるー。あの中にはうちのクラスの面子もわりといたから、吉澤くんにさりげなくやめといたほうがいい風には伝えてるんだけどー」

「越後屋、そなたも悪よのう」

「お代官さまこそ」

 などと言い合いながら、二人でひとしきり笑い合う。早苗と池田はもう校門を出ていったらしく、もうどこにも姿が見えない。

「……それにしても。あたしらの中で早苗が一番先に大人への階段を上っちゃうかも知れないのかー、ちょっと意外」

「何よ、大人への階段って」

「えー、そりゃキスとかに決まってるじゃない。珠美はまだしもあたしはまだ相手すら見つかってないもんねー、淋しいわ」

 相手云々というところよりも、別のところがひっかかって、珠美は驚いたような顔で由梨香を見た。

「何よ、変な顔して」

「…まさかと思うけど。由梨香あんた、もしかしてキスもまだなの!?

「ちょっ 声が大きいっ!」

 慌てふためいて口を塞いでこようとする由梨香に驚きを隠せないまま、珠美は謝罪の言葉を口にする。

「あっ ごめん…」

 その後は、気まずい沈黙。

「……悪かったわねー…」

 長い前髪をかき上げながら、観念したように由梨香が呟いた。

「あんた、中学の時先輩とつきあったことあったじゃん、遊び人って噂の」

 由梨香は中学時代から大人っぽかったから、そういうタイプの男子とつきあっていてもサマになっていたのを覚えている。一ヶ月も経たずにあっさり別れて、しかも双方あっけらかんとしていたので、大人の恋愛に憧れる同級生や下級生の羨望を集めたのは言うまでもない。

「確かにそんなこともあったし、あの先輩は手も早かったけどさ……ロクにデートもしてないってのにキスしようとしてきたり、家族が誰もいない家に誘ってきたりして、誰が素直に応じるかっての! 不意打ちでキスしようとしてきた時は、鞄とキスさせてやったわよ。大体、あたしとつきあおうと思った理由だって、『お前ならすぐにヤレそうだと思ったのに』だってよ! ふざけんなっての!!

 その時の怒りがよみがえってきたのか、由梨香はつい先ごろ自分で「声が大きい」と言ったにも関わらず、エキサイトしてしまっていた。

「落ち着きなって由梨香〜。…てことはつまり…?」

「ああ、ごめん。そう。あたしはまだ、まっさらの綺麗な身体ってこと」

「…うそ」

「他の人ならともかく、あんたがそういうこと言う〜?」

 由梨香の目は既に恨みがましい。

「ごめんごめん、いままでそんな話ちゃんとしたことなかったから、びっくりしちゃって。由梨香って意外に身持ちが固かったのね…」

「そうよ、あたしはいくら蓮っ葉な外見だからって、心までは汚れていないのよ〜。あんたたちと同じように恋に夢見る乙女なんだから」

 何とか由梨香が機嫌を直したと思えるようになったところで、小さく響くカタン…という音。

「誰!?

 思わず反応した由梨香の誰何の声に応えるように、そっと姿を現したのは、池田と同じく二人と長いつきあいである橋本。

「ごめん、立ち聞きするつもりはなかったんだけどさ、ちょうど通りかかったら会話が聞こえてきちゃって入りづらくて……」

「あ、ううん、こっちこそ公共の場所でデカい声で変な話しちゃっててごめん」

 なるべく友好的に笑顔を浮かべて、ごまかすように珠美は言う。

「お前らまだ帰らないのか? 池田は塚本と帰ったみたいだけど」

「ああ、もう帰るわよ。ただ、早苗と池やんが仲良く帰ってくのをあたたかく見守ってただけ」

 池田がついているのだから危険はないだろうけれど、また例の連中が変なちょっかいをかけてこないか、距離、方向に関わらず全体を見渡せる位置から見守ろうと、どちらからともなく言い出したことだった。

「俺さ、このプリントを職員室に持っていったらもう帰れるんだ。久しぶりに一緒に帰らないか?」

「うん、いいわよ。由梨香もいいわよね? この面子で帰るのも久しぶりだし」

「う、うん、構わないわよ」

「サンキュ。じゃあこれさっさと出してきちゃうから、ちょっと待っててくれな」

 言うと同時に、橋本はほんとうに嬉しそうに笑ってから職員室に向かって走っていった。どちらかというと冷静で知的な池田と違い、明るく天真爛漫な橋本はある意味真逆な性格だ。だからこそ、小学校時代からいままでという長い間、二人は仲良くつきあっていられたのかも知れない。人間、自分にないものを持っている相手に惹かれるところもあるから。

「あー、恥ずかしいところを見られちゃった、ねー由梨香」

 などと由梨香に話を振るが、由梨香の返事はない。

「…由梨香?」

 不思議に思ってそちらを見ると、由梨香は珍しく俯いていて、その長い髪が顔を隠していてどんな表情をしているのかよくわからない。由梨香のそんな様子など滅多に見るものでもないので、ますます不思議になって珠美は身体を屈めて下から覗き込むように由梨香の顔を見上げた…のだが。予想もしていなかった表情を目の当たりにして、心底驚くことになった。何と由梨香は、顔を真っ赤にして心底恥ずかしそうに片手で口元を覆っていたのだ。

「由梨香!?

「や、やだ、何でもないのよ、気にしないで……」

「何でもないってことはないでしょ、あんたのそんな顔なんて初めて見るわよっ」

 なおも言い募る珠美に、由梨香もまたも観念したらしく、普段の彼女とは較べものにならないほどか細い声で、ささやくように言葉を発した。

「いままでうまく隠してたのに…何で、こんなタイミングで来ちゃうのよ……」

「え?」

「おかげで、あたしらしくないから内緒にしまくってたトップシークレットまでバレちゃったじゃないのっ」

 トップシークレット? というのはもしかして由梨香が実はキスも未経験だったという事実のことだろうか? そんなこと、まだ高一であるのだから当然と言ってもおかしくないし、現に由梨香もついさっきまでは珠美の前で全然平気そうな顔をしていたのに、何をいまさら…?

 疑問符ばかりが浮かんでいた珠美の頭の中に、ひとつの「まさか」と言いたくなるような仮説が閃く。ほんとうにまさかで、もしほんとうにそうであったなら、先刻知ったばかりの前述の事実に輪をかけて驚きの極致なのだが。

「あー…あのさ、由梨香」

「なに?」

「もしかしてと思うし詮索するみたいで悪いんだけどさ、もしかしてあんた……好きなひとがいる、とか?」

!!

 由梨香がバッ!とこちらを向いた。その様子からは、いつもの彼女が見せる余裕はまったく感じられない。

「な…んで……?」

「何でと訊かれても、ほとんど勘なんだけど。でもってそのひとって、あたしのよく知ってる人だったり…!」

 そこまで言いかけたところで、由梨香にすさまじい勢いで手で口を塞がれて、珠美はそれ以上言葉を発することができなくなってしまった。鼻も半分以上塞がれる形になってしまって、少々呼吸が苦しくなってきたので、プロレスのギブアップの意をしめす時のように、由梨香の手をぺしぺしとはたく。

「あっ ごめん……でも、それ以上は…」

 由梨香がすぐに手を離してくれたので、珠美は軽く息をついてから続ける。

「うん、誰にも言わない。ていうか、あたし自身驚いちゃって、状況を理解するのに精いっぱいで、それどころじゃないんだわ……そんで…いったいいつから…?」

「…中学の時さ。クラスの目立つ男子グループがあたしのことお水っぽいとか何とかしつこく言ってきた時あったじゃない」

 珠美もその時のことはよく覚えている。皆より飛び抜けて発育がよく大人びた顔立ちの由梨香を、女子は嫉妬と羨望の裏返しのようなもの、男子は無責任に面白がって囃したてたことがあった。珠美や早苗を筆頭に、良識を持った生徒たちはそんな騒ぎにのることはなかったが、珠美同様普段からはっきりものを言い、毅然とした態度を崩さない由梨香に反感を抱いていた女子もそれなりにいたらしく、珠美としても歯がゆい思いをすることが多かった。けれどそれを打開したのは…当時いまほど親しくしていなかった橋本の、ほんとうに他意などなさそうな言葉だった。

『へ? テレビに出てる女優みたいでカッコいいじゃん。ほら、ヅカの元男役の女優さんみたいな? 凛々しくて綺麗で、宮原ああいうの似合いそうだよな。オーディションとか受けてみたらいいのに』

 「宮原ってお水のオネーサンみたいだよな」と話を振られた橋本が返した言葉が、これであった。それまでは、どちらかというと水商売、酷い時には風俗やAV女優とまで言われていた由梨香に対し、橋本はほんとうに無邪気な笑顔でこう言ってのけたのだ。更に言い募ろうとする相手に、

『何お前、そんなに欲求不満なの? 俺も同じ思春期だし気持ちはわかるけどさー、そういうのはもちっと抑えとけよ。「あんまりガツガツしてるとかえって引く」ってうちの姉ちゃんらも言ってたぞ?』

 などと言ったものだから、周囲からの失笑に耐えられなくなった相手は逃げるようにその場から立ち去っていってしまった。そして、同じように噂していた女子たちのほうに向き直り、

『お前らもさー、女の子なんだからもちっとお上品にしとけよ。いくら肉食女子が流行りだからって、下品なのはダメだって姉ちゃんら言ってたぞー?』

 と言ってのけたのだ。普通なら言われた相手も怒りだしそうな内容だったが、橋本のように天真爛漫なタイプに言われると、かえって自分の下世話さを恥じるだけの冷静さを取り戻せるようだった。とたんに気まずくなったのだろう、てんでバラバラの方向に視線や顔を向けている。

 それ以来、由梨香に絡む連中は目に見えて減っていき、次いで橋本たちと更に親しくなるきっかけとなったといえばそうかも知れない。

「へえ〜」

 まさか、あの出来事の裏にそんな副産物の変化があったとは。夢にも思っていなかった。

「お願いだから、誰にも言わないでよ!?

 先刻から引き続き、由梨香はまるで別人のように慌てふためいている。

「言わないって! 本人が秘密にしてることをわざわざバラすほど、あたし性格悪くないわよ」

「ホントに!?

 いつもの由梨香と違って、こうしているとほんとうに年齢相応の少女にしか見えない。これがほんとうの由梨香の内面なのだろうと、珠美は思う。早苗や奈美に負けないほど、純粋で傷つきやすい…。

「ホントだって。何にだって誓えるわよ」

「ホントにホントに!?

「ホントホント。もしあたしが誰かにバラすようなことしたら、あたしもとっておきの秘密を話すから。信用してよ」

 言わずと知れた、潮への想いのことだ。

「珠美にも…誰にも内緒の秘密があるの……?」

「そりゃあるわよ。あたしだって年頃の女の子だもの。もう少し心の整理がついたら、あんたや早苗にも話そうかと思ってたとこだったのよ」

 それは、ほんとうのこと。昔の自分と潮を直接知らない由梨香たちのほうが、話しやすいように思えたので────そういう意味で恥ずかしくて、姉の光枝にも話せないでいたのだ────もう少しだけしたら相談も兼ねて二人に打ち明けようと思っていたのだ。

「そのうち早苗も入れて、誰かの家でゆっくり話しましょ」

「いわゆるガールズトークってヤツ?」

「そ。いまだと女子会ともいうわね」

「…初めてじゃない? あたしたちがそういうのやるの」

「そういえばそうね」

 それなりに長いつきあいだというのに、恋愛絡みのそういうことをしたことがないなんて、思春期の少女たちとしては少々、いやかなり問題があるかも知れない。

「気を抜いたら、二人がかりで早苗を質問攻めにしちゃいそうだから、そのへん気をつけないとね」

「ああ、それありそうね…あのコ繊細だから、そのへん気をつけないと。早苗を泣かせたら、池田大明神さまが黙ってないわよ」

「ちょっ 何よ、『大明神』ってっ 似合い過ぎじゃないのっっ」

「やっぱりあんただってそういう目で池やんを見てるんじゃないのーっ」

「そりゃあねえ、あの時のすごい眼光見ちゃったらねえ」

 そんな話でそのままいつものように盛り上がってしまったから、珠美は何も知らなかった。

「〜♪」

 二人の話していた内容など何も聞いていない橋本が、職員室への道のりをスキップでもせんばかりに楽しそうに歩んでいたことを……。

 珠美は何も、気付いていない─────。



 そして。

「……いったい何浮かれてるんだ?」

 次の休日、翔から光枝を経由してもたらされた情報により、潮が訪れた図書館で待ちうけていた珠美が、あまりにも上機嫌でそれまでは毛嫌いしていたはずの勉強に意欲的に取り組んでいるのを見た潮が、怪訝そうな表情でこぼした言葉がこれだった。

「んー? うん、女友達っていいなと思える出来事がね、最近あったからよ。ちょっとばかし憂鬱だった気分がいくらか楽になったっていうか」

「はあ?」

「いまはまだ、あんたは知らなくていいのっ さ、勉強勉強っっ」

 いつか、いま自分を取り巻く事情も内心も話せるようになれるといいなと。珠美はそっと、心の中で呟いた。





        





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2014.10.1up


環境と共に変わっていく心。
少女たちもいろいろ忙しいようです。


背景素材「空に咲く花」さま