大丈夫。大丈夫。大丈夫。
加藤瀬里香は、みずからの軽自動車の中で何度も何度も自分にいいきかせる。
ここは、瀬理香の自宅と同じ市内にある石川リカーショップの駐車場。昨今のコンビニ勢力にも負けず、先代から始めた酒屋を守り続ける、地域密着型のいまや酒屋兼雑貨屋となった店舗の目と鼻の先である。瀬里香は今日から、この店の事務員兼店員として働くことになっているのだ、新社会人としてしっかりやらなければならない。
肩甲骨に届くか届かないかほどの茶色がかったストレートヘアに、どんぐりまなことよく評される、大きくよく動く瞳。鼻は低いが愛嬌のある顔立ちで、唇は薄く一度にたくさん食べ物を頬張れない小さな口のせいもあって、動物にたとえるとたいていリスなどにたとえられてしまう。だがそれよりも、瀬里香自身を一番悩ませているのは、みずからの体のサイズだった。身長は百四十八cm、体重は四十五kg。更にこの顔立ちとなれば、十人中十人に「中学生? それとも高校生?」としか訊かれないのだ。真相を答えると大抵驚かれるが、瀬里香はこれでも今年成人式を迎えて先日短大を卒業したばかりの二十歳なのだ。世間的には、立派に成人として扱われる年齢なのだ。だからこそ、社会人のひとりとして、社会に立派に貢献しなければならないのだ。
「……よしっ!」
小さな声で、けれど全身に気合を入れて、瀬里香は車から降りて一歩踏み出す。社会人としての第一歩の始まりだ。
事前に聞いていた通り、開店前の店舗の裏手に回り、出入り口を探す。見ると、店名の入ったワゴン車のところで、後ろのハッチバッグを開けて何やらごそごそとやっている男性らしき影が目に入った。そうだ、あの人に訊いてみようと思ったところで、件の人物が空のビール瓶がいっぱいに入ったケースを持ち出してきたので、近寄りかけた足を思わず止めて見守ってしまう。瀬里香に気付いていないらしい相手は、小脇に無地のポーチを挟んでいいたが、ケースを持つ腕に注意がそれてしまったのか、ポーチがするりと抜けて、小さな音を立てて地面に落下してしまった。するとポーチのジッパーが開いていいたのか、中に入っていたらしい小銭が勢いよくあちこちに転がり始めた。
「わ…!」
「あ、あたし拾います!」
瀬里香はとっさにそれを拾い集め始めながら、相手に笑いかける。
「あ、ありがとう」
それを見た相手も笑顔を見せて、ケースを脇に下ろしてから他の小銭を拾い始める。
「これで…全部かな?」
「多分…大丈夫だと思いますけど、一応後で金額を確認してくださいね」
言いながら、瀬里香は男性に向き直って拾い集めた小銭をそっと手渡した。さっきまでは気付かなかったが、こうして見るとかなり背の高い男性だ。百八十cmは軽くあるだろうか? 短くした黒髪は角刈りで、少々細いが落ち着いた眼差しの瞳、アゴには無精ひげの、二十代後半と思しき男性だった。
そういえば、この店の現店主には三人の息子がいると聞いている。とすると、この男性はその中のご長男あたりだろうか。
「いや、ほんとうにありがとう。おかげで助かったよ」
低くて落ち着いた声でそう言って笑う男性はほんとうに優しそうで、この人と一緒にならうまくやっていけそうだなと瀬里香は思った。
何となくほんわかしていた空気を破るかのように、別の男の声が響いたのは、次の瞬間のこと。
「おーい、リョウ」
いままで気付かなかったところにあったドアが開き、二十代前半と思しき男性が顔を出した。目前の男性の弟さんだろうか。
「あれ、お客さん……じゃなくて、もしかして」
瀬里香に気付いた男性が、問いかけてくる。
「あ、はい。加藤と申します」
「キョウ、知ってるのか?」
リョウと呼ばれた男性が問う。
「何言ってんだよ、親父が言ってただろ、今日から事務やってくれる人がくるって」
「…ああ! 取引先の居酒屋のお嬢さんだっていう」
「はい。居酒屋『飲み道楽』の娘です」
そうなのだ。瀬里香の家は昔から居酒屋を営んでいて、本来ならば瀬里香も短大卒業後は家業を手伝うはずだったのだが。前述の通りのこの容姿のために、いろいろ誤解を招いてしまって、働くことができなくなってしまったのだ。何しろ、相手は酔っ払いだ。働いている時間より、説教をされたりナンパされたりする時間のほうが長いとあっては、両親も瀬里香が別の就職先を探すことに賛成するというものだろう。その結果、取引先であった石川リカーショップの店主が事務員を雇わざるを得ない状況になったと聞いて、渡りに船ということで、こうなったのだ。
「おーい、親父ー。加藤さんがお見えだぞーっ」
キョウと呼ばれた男性が声をかけてくれて、ようやく馴染みのある店主が顔を出してきた。
「おお、瀬里香ちゃん来てくれたか。助かるよ」
「おじさま。これからどうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、息子たち二人も慌てて頭を下げる。
「とりあえず紹介するから、みんな中に入ってくれや」
その言葉に、皆で連れ立って店の中に入る。店の中には、もう一人、二十代半ばほどの男性と同じくらいの年代の女性、それから中年の女性の三人がいた。皆優しそうな雰囲気の人たちだったので、瀬里香はそっと内心で胸を撫で下ろす。
「瀬里香ちゃんは俺以外のうちの奴らに会うのは初めてだったか」
「はい」
「まず、この子。加藤瀬里香ちゃんだ、これからうちの事務やらやってもらうから、みんなよろしく頼むな」
その声に合わせて、瀬里香は丁重にお辞儀をする。
「加藤瀬里香です。この春、短大を卒業して成人したばかりの若輩ですが、頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
「って…えええええっ!?」
年齢を言った途端にこの反応……やはりもっと下に思われていたか。いつものことなので、瀬里香は思わず苦笑いを浮かべる。
「ハタチ……とても高校生にしか見えないお肌だわ、化粧品どこの使ってる!?」
思いっきり食いついてきたのは、先刻の若い女性。隣にいた男性が、苦笑いしながら「後でゆっくり訊いたらいいだろ」と女性をなだめて下がらせる。
「んで、今度はうちのほうな。俺が店主の石川…って、知ってるよな。で、こっちがうちの母ちゃん。事務や経理の最高責任者ってヤツかな。それから、長男の祥太郎と嫁さんの美葉子(みよこ)ちゃん。ふたりとも二十四歳な。ちなみに美葉子ちゃんの腹ん中には、うちの初孫が入ってんだ。なんで、こっちのフォローもよろしく頼むわ」
「よろしくー」
その声に合わせて挨拶してくるのは、先ほど後から会った若い男女二人。
「わあ、おめでとうございますっ こちらこそよろしくお願いします!」
挨拶をしながら、瀬里香はあれ?と思う。最初に会った彼が長男ではなかったのか? それとも、少し老けて見えるが実は彼は次男だったのか。
「それから、次男の恭太郎。二十一歳で今度大学四年」
「いっこ違いだね、よろしく瀬里香ちゃん」
次に声をかけてきたのは、先刻「キョウ」と呼ばれていた青年。
「よろしくお願いしますー」
差し出された手に握手で応えながら、瀬里香の内心はパニック状態だった。この男性が次男だとしたら、あの彼はいったい──────!?
瀬里香の内心を知ってか知らずか。石川がニヤリと笑いながら、次の言葉を口にする。
「最後に、うちの末っ子の遼太郎。こんなツラして十七歳の今度高校三年なんだわ」
今度は、瀬里香が絶叫する番だった…………。
「─────落ち着いた?」
よく冷えた水のグラスを差し出してくれるのは、つい先ほど紹介されたばかりの美葉子。
「はい…ありがとうございます」
瀬里香がそれを受け取って飲むのを見届けてから、美葉子は再び口を開く。
「もう、お義父さんてば。私たちも、瀬里香ちゃんのこと『取引先の居酒屋の娘さん』としか教えてもらってなかったのよ。これがやりたくて両方に詳しいこと黙ってたのね」
ほんとうに困った人、と美葉子は続けるが、本気で思っている様子でもない。まあそれは瀬里香も同じことだが。あのお茶目なところも石川の魅力のひとつだと思っているから、あまり憎めないのだ。
「それにしても、びっくりしました。てっきりあの人がご長男さんかと思っていたので」
「私も最初は驚いたわ。初めて会った時はリョウくんまだ中学生だったんだけど、いまよりちょっと幼かっただけで、基本的にはあまり変わっていないんだもの」
「うちのじーさんがあんな感じだったらしいから、そっちに似ちゃったらしいんだな」
笑いながら告げるのは、本物の長男の祥太郎。その後ろから、恭太郎が楽しそうに告げてくる。
「でもアレで中身は結構シャイなんだよ。ハニカミ王子って呼んでやってー」
「やめろ、それ!!」
本気で恥ずかしそうに、遼太郎が叫ぶ。その様子からすると、いままでさんざん言われまくった言葉なのだろう。
あらためて見てみると、確かに遼太郎は上の二人とあまり似ていない。身長が高いところは全員共通しているが────何と三人とも百八十はありそうなのだ、三人そろうと迫力としか言いようがない────言われなければ、血のつながった兄弟とは誰も気付かないかも知れない。
「まあ、こんな息子たちと嫁だけど、よろしくしてやってね。あ、美葉ちゃんそろそろ時間だよ」
「あ、はい。瀬里香ちゃん、実は私、これからお義母さんに付き添ってもらって定期健診に行かなきゃならないの。だから、事務や経理に関しては帰ってきてから教えるわね」
「あ、はい、わかりました。お気をつけて行ってらっしゃいませー」
二人を見送ったとたん、今度は石川と祥太郎、恭太郎が慌ただしく動き始める。
「んでもって、俺たちはこれから配達に行かなきゃなんだな」
「という訳で、さっそくで悪いけど店番頼むわ」
「えっ えっ えっ!?」
確かに接客は家のほうで経験があるが、初日のこんな最初っから店番なんて、できるはずがない!
「あ、大丈夫大丈夫ー。我が家で唯一の未成年を置いていくから、詳しくはそいつに聞いてー」
と能天気に言いながら、三人はそれぞれ軽トラやワゴン、二輪ででかけていってしまった。後には、遼太郎と瀬里香だけが取り残される。
えー、いきなりふたりっきりって、さっきのこともあるし気まずい…かも。
「えーと。んじゃとりあえず、レジの使い方から教えますね」
何となく居心地の悪そうな顔で、遼太郎が切り出す。あちらも、同じような気分を味わっているのかも知れない。
「あ、はい、お願いします」
遼太郎の教え方は丁重で、とてもわかりやすかったのだが、どことなく落ち着かない感じがする。何というか、妙な緊張感が漂っているのだ。
「あの…」
ちょっとした質問があって、何気なく声をかけたとたん、遼太郎の声が裏返った。
「は、はいっ!?」
驚きに目をみはった瀬里香の前で、遼太郎の顔がみるみる赤くなっていって。ほんとうに恥ずかしそうな表情で、その場でしゃがみ込んでしまった。
「……もしかして。ちょっと失礼なこと訊いちゃうけど、女の子苦手?」
問いかけると、遼太郎は広い肩をびくりと震わせてから顔を上げて、真っ赤な顔をしたままこくりと小さく頷いた。
「…………実は俺。昔っからこんなナリだったから、あんま女の子と話したことなくて。いまも男子校だし、若い女の人と接したことってほとんどなくて」
「え、だって美葉子さんは?」
あの女性も若い女性ではないのだろうか。
「美葉子義姉さんは、昔っからあんな風にあっけらかんとしててあんま女、女してなかったし、いまとなってはホントの姉みたいなもんだから……だけど瀬里香、さんはちっちゃくてすっごい可愛い女の人だし、ちょっとでも触ったら壊れちゃいそうで何か怖くて」
それだけ言ったところで、遼太郎はすっかり俯いて黙り込んでしまった。
自分より三十cm以上も大きい男の人のこんな姿─────真っ赤になって、ほんとうに気恥ずかしそうに自分の弱いところをさらけだすところなんて、いままで見たことがなかったから、瀬里香の全身は新鮮な驚きに包まれていた。
うわすごい、こんなおっきい男の人でも…あ違った、まだ男の子か。怖いことなんてあるんだ。って、そうじゃないでしょ、あたしったら。そんなことじゃなくて、そんなに怖いことなんてないんだよってどうしたら伝わるかなあ。
どうしたものかと悩んで悩んで、瀬里香はようやくひとつの結論を導き出した。そっと手を伸ばして、目前の遼太郎の肩にぽんっと手を置いた。遼太郎が驚いたような表情のままで、顔を上げる。
「ほら。触ったぐらいじゃ壊れたりしないよ。あたしは体はちっちゃいけど、丈夫にできてるんだから。中身だって、女の子は結構たくましいんだから、ちょっとやそっとじゃへこたれないのよ。すぐ涙を見せるような女は、あれは計算よ計算!」
一気にまくしたてるが、遼太郎はまだ疑わしそうな表情を崩さない。これはなかなか手強そうだと思った瀬里香の脳裏に、つい
先日テレビで放映されたあるアニメのヒロインの姿がよぎった。その名前を思い出すより早く、体が勝手に動いて、両手で遼太郎の両手を包み込んでいた。互いの温もりが、手を通して伝わり合う。
「ほら。怖くない。怖くない。怖くない。怖くない。怖くない──────」
呪文のように、いいきかせるように何度も何度も囁く。
どうか、遼太郎くんの心に届きますように。私は簡単に壊れたりなんかしないから。だから、そんなに怖がらないで────────。
囁きながら、瀬里香は瞳を閉じていたから。遼太郎の変化に、すぐには気付けなかった。ぷ…っと息を吹き出す音が聞こえて、思わず目を開けた瀬里香の目前にあったのは、必死に笑いを堪えているような遼太郎の顔。
「…っ ……っ!」
「何よ、それえっ!!」
思わず立ち上がって叫ぶと、遼太郎は大きい体をふたつに折って笑い始めた。
「だ、だって、『怖くない』ってこないだのナウシカ見たっしょ、俺も見てたもんっ」
「だって他に思い浮かばなかったんだもん、しょうがないじゃないっ」
さすがにこれは恥ずかしかったかと思いつつ瀬里香は叫んでしまう。冷静になったいまならともかく、あの時は他にいい言葉が思いつかなかったのだ、仕方がないではないか。とはいえ、自分でやってしまったこととはいえ、恥ずかしくてそれ以上何も言えなくなってしまった。
「──────でも」
目尻にたまった涙を指で拭いながら、遼太郎は立ち上がって。それから、ようやく呼吸を整えてから、言葉を紡ぐ。
「すごく気分が楽になったよ。ありがとう。瀬里香さんのおかげで、前ほど女の子が怖くなくなった気がする」
そんな風に満面の笑顔で告げられたら、もう怒ることができなくなってしまうではないか。四歳ほど年下の弟を持つ瀬里香は、こんな風に素直に懐いてくれる相手には弱いのだ。姉としての悲しい性だろうか。
「そう言うなら、許してあげてもいいけど」
「それにしても……『怖くない』って…ぷぷっ」
「もーっ!!」
気が付いたら、先刻までの奇妙な緊張感はどこかに消え去って、いまではすっかり居心地のいい空気だけが漂っている。先ほどのやりとりは、遼太郎にとってだけではなく、自分自身にもいい方向にはたらいてくれたのだろうか? 瀬里香は心の底から安堵の息をもらす。
「今度悩みができたら、私に相談なさい。瀬里香お姉ちゃんが解決に導いてあげるから」
「もしかして、瀬里香さんて弟か妹いる?」
「うん、十六歳の弟が一人」
「道理で、見た目の割にお姉ちゃんぽい訳だー」
お姉ちゃんぽい? そんなこと、初めて言われた。何だか嬉しくなって、瀬里香の頬が微妙に緩む。
「見た目はどう見ても中学生みたいなのになー」
「ちょっ そこはせめて高校生でしょーっ! 何よ、老け顔高校生のくせにっ」
「あー、言ったなー、気にしてるのにっ」
口は悪いが、ふたりとも顔は楽しそうに笑っている。すっかり打ち解けてしまったふたりの間に、もう何も障害は存在しなかった。シュン…!と自動ドアが開く音がした時には、ふたりほぼ同時にそちらを向いて、まったく同じタイミングで満面の笑顔でふたり同時に声を上げていた。
「いらっしゃいませーっ!!」
そんな感じで、瀬里香の社会人生活の一日目が始まったのである。
* * *
それから数日後。
「ありがとうございましたーっ!」
笑顔で客を見送った瀬里香に、また違う方向から声がかかる。
「瀬里香さーん、こちらのレジ頼むよー。そしたら俺、一緒に行って運んでくるから」
年配のご婦人を伴った遼太郎だった。店内の備え付けの籠にいくつかの商品が入っている。
「はーい」
「遼ちゃん、大丈夫よ。自分で持って帰れるから」
「おばちゃん、遠慮しないの。おうち、まだ誰も帰ってないんだろ? 俺力あり余ってるんだから、こういう時は甘えて甘えて」
一緒に働き始めてから気付いたことだけれど、遼太郎は子どもや年配の人々にほんとうに優しい。初めて会った時の「うまくやっていけそう」と感じた予感は、外れていなかったようだ。
「いい子でしょー」
「はいー」
遼太郎とご婦人の心温まるやりとりを呑気に眺めていたので、突然背後から聞こえてきた声に違和感を覚える隙もなく、瀬里香は答えていた。
「優しいし、女慣れしてないし、いまどき珍しい素朴な子でしょー」
「はいー」
「ああいう旦那、いいと思わない?」
「はいー…えっ!?」
そこでようやく気付いて、バッ!と後ろを振り返ると、そこにはつわりのために奥で休んでいたはずの美葉子がクスクスと笑っていた。
「美葉子さんっっ」
顔を真っ赤にしてその名を呼ぶと、美葉子はけろりとして続ける。
「ね、どう? 彼氏とか旦那にするには理想的だと思わない?」
「それはまあ…思わなくもないですけど……」
そこまで答えてから、瀬里香はハッとする。
「い、一般的な意見ですよ!?」
「うんうん、わかってるわよー」
ほんとうにわかっているのかいないのか、美葉子は実に楽しそうに笑っていた。
「あたし個人がそう思ってるとかそういう訳じゃないですよっ!?」
「わかってるってばー」
くすくすくす。居心地が悪いったらない。
「ねー、これおいくらー?」
店内から聞こえてきた客の声に、天の助けとばかりに飛びつく。
「はい、お待ちくださいっ」
まったくもう。美葉子は突然何を言い出すのだろう。顔では平然と接客しながら、内心では焦りまくっていたので、瀬里香にはその後の美葉子と奥方の会話は耳に入らない。
「ちょっとしくじっちゃいました、ごめんなさい、お義母さん」
「いいのよ、いまはとりあえず少しでも遼太郎を意識してくれれば。先はまだまだ長いんだし。あの子がマトモに接することができる女の子なんてそうそう現れないんだから、このチャンスを逃したくないのよ、あたしは」
「あたしも、義妹になるなら瀬里香ちゃんみたいな子がいいと思ってたんで、ホントにそうなってくれると嬉しいです」
「という訳で。美葉子ちゃん、がんがん協力してねっ」
「もちろんですっ」
自分たちのことでどんな同盟が結成されたのか……知らないのは、当の本人たちだけであった。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開く音がして振り返った瀬里香は、そこに嬉しい人物の姿をみとめ、満面の笑顔を浮かべた。
「結衣奈ちゃん、千沙ちゃんっ」
「やっほー、瀬里香。時間にはまだ早いんだけど、先に買い物にきちゃったー」
「頑張ってるみたいじゃん、エプロン似合ってるよー」
女の子らしい結衣奈と、活発な千沙。同じ高校を卒業し、現在は四年制の大学に通っている、大切な友人の二人だった。
「お友達?」
「はい、高校の時の。明日は定休日だから、今晩お泊まりに行く約束してるんです」
「初めまして〜」
「瀬里香がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ瀬里香ちゃんには色々やってもらえて、助かっちゃってるんですよー」
「瀬里香はチューハイとかがいいんだよね? 適当に選んどいていい?」
「あ、お願い。後でお金払うから」
そこまで言ったところで、再び自動ドアの開く音。
「いらっしゃ…!」
再び振り返った瀬里香の表情が、先刻とは真逆の方向で固まる。
「何だ加藤、こんなところで働いてたんかよ」
「さか…した」
いかにもいまどきの若者風なファッションに身を包んだ、やはりかつての同級生だった青年だった。
「げ、あいつもしかして尾けてきたのーっ!?」
「あ、ほら、さっき瀬里香の話してたから、嗅ぎつけてきたんじゃないの?」
友人たちも露骨に顔をしかめて青年を見るが、青年自身はまさにどこ吹く風な表情だ。
「中高生みたいな顔して、酒売っていいのかよー」
冗談めかしてはいるが、明らかに好意的ではない言い方に、瀬里香は応えない。
そもそもこの坂下という人物には、高校時代からあまり好意を抱いていなかったのだ。いちいちひとの神経を逆撫でする言動を選んでいるとしか思えないほど、不愉快な思いをさせられてきたのだ、好感など持てるはずもない。
「ああ、あんまし童顔だから、普通の会社には面接で落とされたのかー?」
けらけらけらと耳障りな笑い方も、瀬里香が坂下を嫌いな理由のひとつだった。
「ちょっと、やめなよ坂下」
「そうよ、あんたすごく感じ悪いわよ?」
千沙も結衣奈もたしなめるが、坂下は聞く耳を持たない。瀬里香は内心で念仏を唱えながら、聞こえないふりをする。
「おい、何とか言えよ。こっちは客だぞ」
などと言いながら、坂下が背を向けようとした瀬里香の肩を背後から掴もうとした……のだが。瀬里香がその手を払いのけるより早く、その坂下当人の体が後ろにそり返り、勢いよく尻餅をついた。
「うおっ!?」
「!?」
その場にいた全員が、思わず目をみはってそちらを向いた瞬間。瀬里香は、とてもではないが信じられないものを見た。
「な…何だよ、お前!?」
坂下の言葉に、この時ばかりは同意したくなってしまった。何故ならそこ─────無様に尻餅をついている坂下の背後には、見たこともないような険しい表情をした遼太郎が立っていたからだ。ここにきて、瀬里香はやっと事の次第を理解した。瀬里香の肩を掴もうとしていた坂下の肩を、遼太郎が引っ張って転ばせたのだ。
「ここの従業員かよっ 俺は客だぞ、客にこんな真似していいと思ってんのかよ!?」
いきりたつ坂下を見下ろしながら、遼太郎が静かに口を開いた。
「─────悪いけど。女にタチの悪い酔っ払い並に絡むような奴は、客とは認められないんでね。さっさと帰ってくれないかな」
低い…いつもよりもっとずっと、低い、ドスのきいたと表現するにふさわしいような声だった。瀬里香はもちろん、美葉子すらこんな遼太郎を見たことがなかったのか、信じられないものを見るような目で遼太郎を見つめている。
「な…っ 酔っ払いだとうっ!?」
頭に血が上ったらしい坂下も睨み返すが、とてもではないが遼太郎の迫力の比ではない。
「ち、ちくしょうっ 誰がこんな店で買ってなんかやっかよっ!!」
負け犬の遠吠えとしか表現のできないような捨て台詞を吐いて、坂下は慌てふためいたように店から走り去ってしまった。あとには、茫然としたままの女四人と遼太郎だけが残される。
「………………」
坂下が去ると同時に、軽いため息をついて遼太郎はいつもの様子に戻ったが、瀬里香は声すら出すことができない。あとの三人も同様だ。それに気付いた遼太郎は、この上なくばつの悪そうな顔をしてぽり…とみずからの頭をかいた。
「……ごめん。びっくりさせちゃって。途中からしか見てなかったけど、同じ男として何かすごく腹が立っちゃってさ」
もし友達なんだったら、ホントごめんなーと、遼太郎は続けるが、瀬里香は興奮覚めやらぬ顔でぶんぶんと頭を横に振りまくるだけだ。
「ううん! そんなことない、すっごく助かったのっ!! あいつ高校時代の同級生なんだけど、昔っからすっごくやな奴だったの、どうやって追い払おうかと悩んでたとこだったのよっ 遼太郎くん、ちょっと怖かったけどすっごいカッコよかった!!」
「カッコ…いい? ダチとかからは極道みてえってさんざん言われてたのに?」
「うん、怖いって気持ちよりカッコいいって気持ちのほうが上回っちゃったもの、ホントよっっ」
興奮しまくりで歓喜する瀬里香とは対照的に、遼太郎は恥ずかしさ大爆発といった様子だ。だから、ふたりとも全然気付かなかった。ふたりの背後で、美葉子が結衣奈と千沙をそっと呼び寄せていることに。美葉子はそのまま小声で問いかける。
「ねえもしかして、さっきの男の子って、瀬里香ちゃんのこと好きだったりするんじゃないの?」
その言葉に、驚いた顔を見せた二人が、やはり小声で答える。
「やっぱわかる人にはわかっちゃいます?」
「あいつ愛情表現がへったくそなんですよねー。好きだからいじめるなんて、小学生かっての」
「瀬里香みたいなタイプには、絶対素直にアプローチするほうがいいってのに、わかってないんですよねー」
「ああ、北風よりも太陽タイプね」
「そうそう、あっちの遼太郎さん? のほうが断然似合ってると思いますよー」
「あら、お二人ともわかってるわねえ、お姉さんサービスしちゃうわ♪」
いつのまにやら同盟に仲間が増えていっていることに、当人たちだけが気付いていない。
未来はまだ、誰にもわからない───────。
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