──────世の中、自分ほどついてない人間もいないのではないかと思う。




『…の。…りの。……まりの。真梨乃っ!!


 何か越しに聞き慣れた声に叫ばれて、敷島真梨乃はうたた寝から強制的に覚醒させられた。焦りながら周囲を見渡すと、留守番電話の留守を告げるメッセージが鳴り終わらないうちに、すさまじい勢いで叫び倒す母親の声が耳に飛び込んできた。

『真梨乃っ いるんでしょっ!? どうせまたぐうたら寝てんでしょ、早く出なさいっ!!

 驚きのあまり腰がくだけそうになりながらも、何とか四つん這いのまま電話のほうに這っていって、留守電メッセージの録音時間が終わる前に電話に出る。

「はいはいはいはい、いますよっ」

『「はい」は一回でよろしいっ!』

「はいいっ!」

 以前ならともかく、起きぬけ、しかも現在の自分の状況で母に逆らうことなんてできはしない。

『ったく、携帯にかけても出ないから、まさかと思ったら……ホントに寝てるとは思わなかったわよ。ゆうちゃんのお迎え、ちゃんと行くのよ、わかったわね!?

「わかっております、お母さまっ」

『ならよろしい。頼んだわよ』

 言うだけ言って、電話は切れた。『ゆうちゃん』とはこの自宅で同居している年の離れた兄夫婦の長女で、正式には『悠里』という名の真梨乃の姪である。共働きしている兄夫婦の代わりに、最近保育園からのお迎えを承っている子どもだ。本来なら、まだ二十歳を過ぎて間もない真梨乃が迎えに行く役目になるはずもないのだが、勤めていた会社が倒産し付属の寮も追い出されて帰ってきた身としては……断れるはずもない。

 時計を見ると、そろそろ支度を始めなければならない時間だったが、終わらない夏休みを享受している身ではおしゃれをする気にもなれず、着たまま寝転がっていたTシャツと丈の短いジーンズのまま洗面所に向かう。念のため鏡を見て髪にブラシを通すが、頑固な直毛である肩の上で切り揃えた髪は寝癖のひとつもつくこともなく、さらりと元の場所に戻る。本体である自分と同じく、相変わらず可愛げのない髪だ。

「も、いいや」

 夕刻とはいえまだまだ陽射しの強い表に出る前に一応日焼け止めを塗り直して、帽子をかぶって表に出る。持ち物は財布と携帯と…義姉から預かっている自転車の鍵。子どもを乗せるためのシートもつけてはあるが、不慣れな真梨乃には恐くて乗れそうもないので、もっぱら姪が突然走り出したり車道に飛び出したりするのを防止するため専用だ。

 行きは一人だから乗ってもいいのだが、何となく乗る気になれずにのんびり押しながら歩き始める。起きたばかりで脳味噌がまだうまくはたらいていないというか、先日社長から告げられた会社の倒産のショックがまだ尾をひいているのかも知れない。


 高校を卒業して、初めて働き始めた会社だった。あまり大きくない会社だったけれど、社長以下先輩も後輩────真梨乃の次の新入社員は入らなかったので、真梨乃たち同期のことだが────も皆仲が良くて、とてもアットホームな会社だった。倒産すると社長が宣告した時には、真理乃たち社員はもちろん言っている社長自身さえ泣いてしまったほど……立場の上下の区別なく一心同体になっていたといえる会社だった。あんな会社、きっともう二度とお目にかかることはできないだろう。その上……ああ、その他のことは思い出すのはやめておこう。悲しくなってしまうだけだ。


 教えられた保育園に着いてから、園庭で子どもたちを監督していた保育士に、兄夫婦の代理である旨を伝える。真梨乃が帰ってきたとたん、これまで迎えに来ていた母親はさっそく予定を入れてしまい、友人たちと一泊二日の温泉旅行に行くと言って今朝から意気揚々と出かけてしまった。

「あっ まりのちゃんだーっ」

「ゆうちゃん、迎えに来たよ」

 十六、七歳しか離れていない姪は、下手をすると自分の子どもといっても通じるかも知れない。この子の兄にあたる甥ではさすがに無理があるが。

「まだかえりたくなーい」

 決して嫌われている訳ではないはずなので、姪のこの発言にはひどく驚いた。そんなに母や義姉のほうがよかったのだろうか!?

「まだひろくんといっしょにいたいのー。ひろくんのおむかえがくるまでまってちゃダメー?」

 ああ、そういうことか。ひろくんと呼ばれた同級生()の男の子は、姪の隣でいかにも男の子という感じの凛々しい顔で立っていた。姪の王子さまのつもりなのかも知れない。

「ひろくんていうの? ゆうちゃんのおばちゃんの真梨乃ちゃんです、こんにちは」

 しゃがみこみ、目線を合わせて話しかけると、女の子とは質の違う非常に元気のいいお返事が返ってきた。

「こんにちはーっ!!

「元気がいいねえ。ほんとのお名前は何ていうのかな?」

「かさいひろやといいますっ ゆうりちゃんとはしょうらいけっこんするやくそくをしてます、よろしくおねがいしますっ」

 結婚かあ。こんな小さいうちは、本気でするんだって信じられるんだよねえと、微笑ましい気分になっていた真梨乃は、何かひっかかるものを感じて、ひろやが口にしたセリフをもう一度頭の中で反芻する。

『かさいひろやといいますっ』

 かさい…ひろや? よくある名前といえばよくある名前だが、その組み合わせには何となく覚えがあるようなないような…。

 そんなことを考えていた真梨乃は、背後から聞こえてきた声にぴくりと肩を震わせてしまった。

「あ、どうも、笠井です、毎度お世話になってます」

 聞き覚えのある声に、緩慢な動作で振り返る。自分────正確にはひろやだろうが────に向かって歩いてくるその姿は、記憶よりいくらか大人びた姿で…………。

「広哉、待たせたな。さ、帰ろうか……」

 言いかけた低い声が、真梨乃の姿を認めたとたんに語尾が小さくなって。思いきり目を見開いてから、驚愕に彩られた声がその喉からしぼりだされる。

「─────真梨乃……?」

「……達也…………」

 嬉しいのか嬉しくないのか。自分でもよくわからない、再会だった……。




          *       *     *




 時刻は夕刻、けれどまだまだ暗くなる気配のない狭い道を、ふたり並んで自転車を押して歩く。達也も乗らないのは、真梨乃と同じくやはり不慣れなせいで、他意はないらしい。それぞれの自転車の後ろにつけられたシートには、広哉と悠里がそれぞれ座っていて、相変わらず仲睦まじい様子を先刻から見せている。


「久しぶり…だな」

 先に口を開いたのは、達也のほうだった。

「そうだね…高校卒業以来だから、二年と三ヵ月ぶり…くらいかな? 大学は夏休み?」

「ああ、だから『どうせ暇だろ』って甥っこのお迎えだよ。ほんとは車で迎えに来ようと思ってたのに、『広哉は悠里ちゃんと一緒じゃないと帰りたがらないから』って、大の男がママチャリだよ、まいるよな」

「ああ、免許とったんだ。あたしも卒業してからとったよ、仕事が終わってから教習所行って。大変だったけど、いまとなってはいい想い出かな」

 もう、その会社もなくなったいまとなっては……。

「そういえば、お前、全然違う県の会社の寮に入ったんだろ? なんでいまごろここにいるんだ?」

「…っ」

 その問いに、一瞬言葉に詰まる。その寮に入るか入らないかがきっかけで、大ゲンカした末に別れた元カレになんて……一番訊かれたくないことだった。

「真梨乃?」

「会社……先月つぶれちゃったの。だからいまは、実家に帰ってきてる─────」

 『行くな』と言ってくれた達也の反対を押しきって、彼と別れてまで入った会社が二年とちょっとしかもたずにもうないなんて、どんな顔をして告げればいいのか。情けなくて、真梨乃は顔が上げられない。

「そ、か……残念だったな。お前、すごく行きたがってた会社だったのにな」

 予想外の返答に、真梨乃は大きめの瞳を思いきり見開いて。隣を歩く達也の顔を見つめてしまった。

「何だよ?」

 少々居心地の悪そうな顔で、達也が訊いてくる。けれどその顔は、決して不快そうでなくて…。

「…『バカみたいだ』とか『俺の言うことを聞かないからだ』とか、言わないの…?」

 昔の達也だったら、言ってもおかしくない言葉だと思うのに。

「確かに……昔の俺だったら言ってたかもな。これでも、一応反省はしたんだぜ? あんなにお前が行きたがってたのに、遠恋になっちまう、なんて自分の勝手な都合だけで頭ごなしに反対ばっかして、お前の話ちゃんと聞いてやったことあったかなあ、なんて。俺、すごいガキだったななあって」

 気恥ずかしそうに言う達也に、今度は真梨乃のほうが居心地が悪い気分を味わうこととなった。確かに、反対を押しきってでも行きたい会社で、事実行ってしまったのだけど、あの頃の自分も己のことばかり考えていなかったか、と。

「そんな……ひとりだけどんどん先に大人になっちゃわないでよ…あたしなんか、まだ自分のことを考えるのだけで精いっぱいだっていうのに」

 パソコン教室などに通うかたわら、再就職のための活動はしているが、いまだ次の職場が決まらない状況で、焦りばかりが募っている現状だというのに。そんな風に、他人を労われる余裕なんて、まだないというのに……。

「仕方ないじゃん。すごくいい会社だったんだろ? 社長や上司、先輩たちもすごくいい人たちばっかりで、そこらの下手な家族よりよっぽど仲のいい会社で真梨乃もすごく頑張ってるって、伊沢から聞いてた。だから俺も、お前に負けてられないなって発奮したぐらいなんだから」

 伊沢、とは真梨乃の昔からの親友の春菜の名字で、達也と同じ大学に進学したはずだった。達也とは中学からの長いつきあいだったから、いまも春菜から話を聞いていても何らおかしくはない訳で…。

「春菜には先週会ったよ。高野くんと大学は別れちゃったけど、うまくいってるらしいね」

「ああ、たまにうちの大学の最寄り駅で待ち合わせしているのを見かけるよ。あいつらは結婚までいっちまうんじゃないか?」

 高野とは春菜が高校二年の頃からつきあっている彼氏の名前で、隣のクラスの生徒だったけれど春菜に入学以来ずっと片想いをしていたという純情少年だった。真梨乃と歩いている時に告白のために声をかけられたので、真梨乃が気を利かせて席を外したというエピソードもある。

 ひとつ思い出すと、高校時代のたくさんの想い出が後から後から脳裏によみがえってきて、あまりの懐かしさともう戻れないという哀しみから、涙がこぼれそうになる。

 いやだ。達也の前では泣きたくない。これじゃまるで、慰めてほしくて計算で泣こうとしてるみたいじゃない。

 あの頃の意地を張っていた自分と、現在の余裕のない自分の情けなさとがあいまって、それだけはしたくないと思って、真梨乃は懸命に涙をこらえる。ひとことでも言葉を発したらこぼれてしまいそうな気がして、声すら出すことができない。背後では、広哉と悠里ののんきな微笑ましい会話が続いているというのに。


「………………」

 そんな真梨乃の内心に気付いているのか、達也が片手をそっと伸ばしてきて、真梨乃の頭をまるで子どもに対するように撫でくり回す。視線はまだ明るい空を見上げたままだ。

「あーっ 腹減ったよなあ」

 それがあまりにも自然だったので、それまで後悔や悲しみで混乱していた頭の中が、少しずつ落ち着いていくのを真梨乃は感じた。

 ほんとうに……大人になったんだね、達也。あの頃とは、別人みたい。

 もしかしたら、新しい彼女ができていて、自分との失敗を糧に成長したのかも知れない。そう思ったとたん、真梨乃の胸の奥がちくんと痛む。その瞬間、別の誰かの影が脳裏をよぎって、馬鹿みたいだと自分で思う。もう恋なんてしないと自分で誓ったのに。


「あ…あたしんち、こっちだから」

 すっかり元に戻って、曲がり角でもう一方の道を指差すと、「ああそうだったな」と達也が思い出したように呟いてから、くるりと背後の広哉を振り返る。

「という訳で広哉。悠里ちゃんとはここでバイバイだ。また明日ってごあいさつして帰ろうな」

 そう言われた広哉は渋々とではあるが、悠里とまるで映画か演劇かと言いたくなるような大げさな別離のシーンを繰り広げ始めた。真梨乃は笑いを堪えるのが大変だったが、本人たちにしてみれば真剣そのものなのだろう。思えば、自分たちもそうだった。

「じゃあな、真梨乃、またな!」

 そう言って、達也は広哉と共に帰っていく。『またな』? …そうか。真梨乃が悠里を迎えに行く限り、また達也と会う機会があるのか。そう気付いたとたん、真梨乃の頬がかすかに紅潮した。

「まりのちゃん? なんかほっぺたあかいよ? どうしたの?」

 悠里に言われてハッとして、真梨乃は即座に平常の顔に戻って見せる。二年とちょっととはいえ、社会人として働いた経験からなせる業だ。

「何でもないよ、さ、おうち帰ろ」

 先刻より傾き始めた太陽を背に、真梨乃は自転車を自宅の方向に向けた。

 母親が旅行に行っていて、共働きの義姉もまだ帰ってこないので、真梨乃が四人分の夕食を作ったりしなければならないため、その後は少々忙しかった。帰ってきた義姉が、「後は自分がやるから」と引き受けてくれたので、自室に戻って明日のパソコン教室の予習でもするかと思っていたところで、机の上に置いておいた携帯が鳴った。噂をすれば影とでもいうのか、親友の春菜だった。


『やほー、真梨乃、元気〜? 唐突で悪いんだけど、こないだ言ってたCD、慎くんも聴いてみたいって話だから、借りに行ってもいいかなあ?』

 CDとは、以前会社の寮で先輩に薦められて聴いてみて、すっかりハマってしまった洋楽の新人バンドのCDのことだった。春菜の彼氏の高野も洋楽が好きだと聞いたことがあったから、「よかったら貸すよ」と先週会った時に話していたのだ。

「うん、いいよ。あたしはいつでも空いてると言いたいとこだけど、ハロワ行ったりパソコン教室行ったり姪のお迎えに行ったりして、意外と忙しいのよね」

『ああ、大丈夫大丈夫。こっちが大学休みで時間の融通が結構きくから、合わせられると思うわ』

 大学、という言葉を聞いて、ふと達也のことを思い出す。

「そういえば…さ」

『なに?』

「今日、久しぶりに達也に会っちゃった」

『えっ うそ、偶然? それともどっちかから連絡とったりしたの?』

「まさか、そんな訳ないじゃない。姪を迎えに行ったら、姪のBFの叔父さんだって言って迎えに来てさ。お互いびっくりよ」

『こっちこそびっくりよ。甥姪同士がそういう関係って、あんたたちDNAレベルで惹かれ合ってんじゃないのー?』

 あまりにも突拍子もないことを言われて、真梨乃は思わず苦笑する。

「そんな訳ないじゃない。ただの偶然よ偶然。そんなレベルで惹かれあってるぐらいなら、遠恋するかしないかぐらいでケンカ別れなんてしないわよ」

『それもそっか』

 当時をリアルタイムで知っている親友は、実にあっさりと納得する。

『でもさあ、「焼けぼっくいに火が…」なんて言葉もある通り、より戻っちゃったりとか…あるんじゃないの〜?』

 春菜の声は面白がっている響きだ。

「ないない。言ったじゃない、あたしもう恋なんてする気はないって」

 理由までは話さなかったが、先週会った時に話した言葉を繰り返す。

『ハタチで何枯れたこと言ってんのよ〜。笠井くんなら、お互いよーく知り尽くしてる上に、お互い時間が経って大人にもなったことだし、いいと思うんだけどなー』

「ドラマの見過ぎよ、春菜」

 それから、いくらか他愛のない話をして、通話を切った。携帯を元の場所に戻して、ベッドに横になったとたん、春菜の言葉が脳裏によみがえる。

『「焼けぼっくいに火が…」なんて……』

 そんなの…ある訳ないじゃない。それだけぽつりと内心で呟いて、真梨乃は考えることを放棄した。




            *       *     *




 それから、真梨乃と達也はふたりのお迎えがてら、いろんな話をした。達也の大学のこと、真梨乃の前の会社のこと、何年も前に 県外に嫁いでいったはずの達也の姉が、ご主人と離婚して子どもと共に実家に帰ってきて、こちらで働き始めたため達也がいまお迎え役を仰せつかっていることなど、離れている間にあったいろんなことを。


けれどひとつだけ、真梨乃からは訊けないことがあった。それは、達也の現在の恋人の有無。理由なんて、自分でもわからないけれど─────未練がある自覚はなかったが、 何故かどうしてもそれだけは訊くことができなかった。そんな風に、自分のことで精いっぱいだったから、達也からも自分のそれに対しての質問がなかったことにも気付けなかった。

 そんな日々が二週間ほど続き、真梨乃は新たな会社の面接を受けるため、普段はあまり来ない最寄り駅にやってきていた。紺色のいわゆるリクルートスーツに、可愛げのないビジネス用のバッグを持って、二十歳らしく清楚に見える程度の化粧は施して、滅多に乗ったことのない電車に乗り込む。高校時代は自転車で行ける距離だったし、何となく落ち着かない気分で車内を見渡すと、見覚えのある顔と目が合った。

「達也…?」

「え……真梨乃、か…?」

 シートに座っている達也は、信じられないものを見る目で真梨乃を見つめ返している。何故だかわからなくて内心首を傾げかけた真梨乃は、そういえば化粧をしているところを達也に見せたことがなかったことを、不意に思い出した。

「一瞬わからなかった。どっかでかけるのか?」

「うん、ちょっと面接にね」

「そっか、お前も頑張ってるんだな」

 そんな会話をしながら、互いに微笑み合う。

「お、おい、達也っ 誰だよ、このコっ」

「お前の彼女かよっ!?

 てっきり達也は一人で乗っているものと思っていたが、すぐ隣に友人たちがいたらしい。真梨乃が知らない面子であるところを見ると、大学でできた友達なのだろう。

「ばっか、違うって。友達だよ、友達」

「友達が名前呼び捨てで呼ぶかよー、怪しいな〜」

「ちが…幼馴染みみたいなもんだって。なあ、真梨乃」

「そうですよ。敷島真梨乃といいます、どうも初めまして」

 そう言って事もなげに答えながら自己紹介をすると、友人たちが先を争って自分をアピールしようとし始める。

「あっ 俺高岡っていいます、この達也の一番の親友でっ」

「嘘こけ、一番は俺だっ 遠藤っていいます、よかったら今度お茶でもっ」

「黙れてめーら、俺こそが真の親友だ。三崎といいます、これメルアドです、お気が向いたらいつでもメールを…」

「てめこのヤロ、抜け駆けすんじゃねえっ」

 もう大騒ぎである。目の前で楽しいかけあいを繰り広げる面子に、真梨乃は思わずクスクスと笑ってしまう。その時、アナウンスが真梨乃の降りる駅にそろそろ到着する旨を伝えてきた。

「あ、ごめんなさい、私もう降りなくちゃ。じゃ、達也、また保育園でね」

「ああ、また」

 言っている最中に電車は駅のホームにゆっくりと停車する。達也たちにもう一度にっこりと微笑んで会釈してから、真梨乃はそっと電車を降りていく。窓越しに未練がましく見つめられていることに気付いて、ホームから軽く手を振ると、声は聞こえないがまた大騒ぎしている友人たちをいさめているような達也の姿が、遠ざかって行く電車の窓の向こう側に見えた。

 よかった。達也は大学で、楽しくやっているようだ。それに比べて自分は…と思いながら、何とか自身を叱咤激励して、面接会場への道を急いで歩きだした。


 数日後の夕飯の後、真梨乃は自室でうたた寝をしていた。思い出したくないと思っているのに、何度も夢に見るのは、会社が倒産すると聞いた時の夢。父親のように思えた社長が、ほんとうに悔しそうに悲しそうに涙を浮かべ、声を詰まらせる…あの時の、夢。こんな夢、もう見たくないのに。それでも潜在意識は真梨乃に何度もこの夢を見せては、現実を思い知らせるのだ。

 もうやだ。いつまでこの夢を見なくちゃならないの? 誰か助けて、誰か………。

 いつの間にか周囲にいた人々が消えて、真っ白な霧のような中を真梨乃はひとり歩く。あの夢を見たくないとは言ったが、独りでいるのはもっと嫌だ。お願いだから、誰か出てきて。そんなことを思った瞬間、聞き覚えのある男性の声が聞こえてきた。思わず安堵して、そちらに歩み寄りかけたその時。記憶にある中で、先の夢よりももっと聞きたくなかった言葉が真梨乃の耳に届いた。


『ついにあの会社つぶれちまうらしいな。そういえばお前、あそこの敷島さんだっけ? あのコに結構声かけてたじゃん、これからは個人的につきあうの?』

『冗談やめろよー。親しくしとけば、営業にも有利かと思って声かけてたけどさ。会社自体がなくなっちまうんじゃ、意味ねーじゃん。しかもこれからはプーになっちまうコだぜ? 精神的にも金銭的にも、依存してこられたりしたらたまんねーっつの』

『悪い男だなー』

 どこからともなく聞こえてくる嘲笑の声が、だんだん大きくなっていってやがてそれしか聞こえなくなる。聞きたくなくて、両手で力いっぱい耳をふさぐけれど、声は決して小さくなることなく、それどころかかえって大きく響き始める。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんな現実、知りたくなかった。誰か助けて。誰でもいいから。誰か!

 声にならない声でそう叫んだ瞬間、付近に鳴り響いたのは、突然の電子音。携帯のメール着信音だと気付いて、とっさに目を開けた瞬間、音は止まって。一瞬夢の続きかと思いつつ携帯を開くと、メールは確かに来ていたので、ほとんど無意識に安堵する。誰だかわからないけど、悪夢から救ってくれてありがとう。そんなことを思いながら受信フォルダを開いた瞬間、今度こそほんとうに驚いてしまった。アドレス帳に残してはいたものの、二度と着信などあるはずがないと思っていた相手の名前が着信履歴に残っていたからだ。

 『笠井達也』と──────。


『次の日曜、暇だったら鷹急ハイランドにでも遊びに行かないか?』


 簡潔な一言だけのメールだったけれど。真梨乃を驚かせるには十分な破壊力を持っていた。返信をするより速く、アドレス帳のカ行の欄を呼び出して、オンフックボタンを押す。コール二回ほどで、相手が出た。


『よー、早いな、メールで返事でよかったのに』

「そんなことはどうでもいいのよっ それより、あの内容は何よ?」

『何って、そのまんまの意味だよ。就活も大事だけど、たまには息抜きしないとパンクしちゃうぜ? 日曜なら、面接とか保育園の迎えもないだろ』

「それはそうだけど……あっ こないだの友達に合コンのセッティングでも頼まれた? 残念だけど、無理ね。前の会社の同僚も先輩も、みんな散り散りになっちゃったから、集めるのは厳しいもの」

『違うよ。俺とお前だけで行くんだよ。前はよくふたりで行っただろ? だから気楽に行こうぜ』

 前はよく行ったって…あの頃はまだ、恋人同士だったからで……。

『それとも、何か都合悪いのか?』

「え、ううん、何も不都合はないけど」

『じゃあ、日曜朝十時に迎えに行くから、家の前で待っててくれな。ほんじゃ、また当日になー』

 言いたいことだけ言って、電話は切れた。

 達也はいったい、何を考えているのだろう? 真梨乃と達也はもう恋人同士でも何でもないというのに。今度はただの友達として元気づけてくれようとしているのか? ふたりきりでも、気まずい思いをする心配はなさそうだけど、だけど。真梨乃とふたりきりででかけて、マズいことになる相手とか……いないのだろうか? 仮に真梨乃がその彼女の立場だとしたら、いくらどん底の位置にいる相手だったとしても、元カノとふたりきりででかけられて平気でいられるはずがない。たとえ、口では何と答えたとしても、だ。達也には、それがわからないのだろうか? 決してそんなに鈍いほうではなかったははずだが。

 まあ、そのへんのことは、日曜日当日に訊けばいいかと思い、真梨乃はそっとベッドに腰を下ろした。




            *      *      *




 そして、日曜日当日。真梨乃は、寝起きはよくないほうだというのに目覚まし時計のセットした時間より前に起きてしまっている自分にも、友達同士で遊びに行くのだからと思いつつ、就職してから買ったお気に入りの服に着替えている自分にも、就活の時と違ってプライベート用にしっかりメイクしている自分にも戸惑っていた。もしかして自分は、まだ達也のことが好きなのだろうか? 自問してみても答えは出ない。


 家族には「気晴らしに友達と遊びに行く」とだけ告げて、門扉の前で待つ。そういえば達也は「迎えに行く」と言ったが、いったいどうするつもりなのだろう? 以前よく待ち合わせた場所は、真梨乃が地元を離れている間に何か不都合でもできたのだろうか。そんなことを考えて脇のほうを見やったとたん、背後から車の短いクラクションが鳴り響いた。もしかして、ここで立っているのは邪魔だっただろうかと思い、とっさに振り返ると。あまり新しそうではないけれど、軽などではなく一般的な乗用車の運転席の窓から顔を出して手を振っている達也の姿が視界に飛び込んできた。

「た…達也!?

 驚愕に目をみはり名前を呼ぶが、達也のほうも目を大きく見開いたまま、何も言おうとしない。不思議に思って、達也の目前にまで歩いていって眼前で手を振ると、やっと気付いたかのように普通の表情に戻る。

「あ、ああ…おはよう」

「おはよう。この車、どうしたの? まさか達也のじゃないでしょ?」

「いや、俺のだよ。中古の安いヤツだけどな。大学入ってからバイトして、自分で買ったんだ」

「そうなの? すごい」

「それはともかく、いつまでも突っ立ってないで、さっさと乗れよ」

「あ、うん…」

 戸惑いながらも助手席に乗ってシートベルトを締めると、達也は短く「行くぞ」とだけ告げて、サイドブレーキを外してアクセルを踏み込む。そのとたん車は自然な感じでゆっくり動き始め、少しずつスピードを上げていく。その様子を眺めていた真梨乃は、手をはじめとする達也の身体のあちこちが以前とはどこか違う気がして、何となく新鮮さを覚えていた。以前の達也といまの達也……いったい何が違うというのだろう?

「どうかしたか?」

 真梨乃の視線に気付いたのか、こちらを一瞬だけ見てから、達也が問いかけてくる。

「ううん……何か、前と違う気がして。達也、もしかして痩せた?」

「痩せたというか…前は受験でできなかった分、いまはバイトやってるから筋肉がついて締まったかな? 体重はそんなに変わってないんだけどな。ほら、筋肉は脂肪より重いから」

「そっか。頑張ってるんだね」

 いままでは気付かなかったけれど、こうしてこんなにそばにいると高校時代より精悍になったことがよくわかる。そう実感したとたん、急に意識してしまって、何だか気恥ずかしくなってしまう。

「前より……男の人っぽくなったよね」

 できるだけ自然に言おうと思ったのに、何故だか頬が熱くなってきて、何となく気付かれたくなくてさりげなく窓の外に視線を移す。そのまま窓の外の風景に見入ってしまったから、達也がいまどんな表情をしているかは、真梨乃にはわからない。

「真梨乃だって……前より綺麗になったよ─────」

 真梨乃は、顔を達也とは反対方向に向けた自分の行動を、心底褒めてやりたくなった。達也と顔を合わせたままでそんなことを言われたら、どんな顔をしていいかわからなかっただろうから。先刻は少しで済んだ紅潮が、今度はもう止められないくらい急速に激しくなっていくのを、真梨乃は自覚した。

「あ…ありがと………」

 真梨乃はとてもそちらを見られなかったから。だから、気付かなかった。前を向いて運転していた達也の顔もまた、自分に負けないくらいに真っ赤に染まっていたことを。達也も、真梨乃のほうを決して向こうとはしなかったから、恐らくは気付かなかっただろう。助手席の窓ガラスに映っている真梨乃の顔も、彼に負けないくらい真っ赤に染まっていることに……。


 休日であるせいか、できてそれなりの年月が経って地元にすっかり根付いているはずの鷹急ハイランドはなかなかの盛況ぶりを見せていた。気を抜くとすぐに連れとはぐれてしまうのではないかと思えるほどの人出に、真梨乃は思わず眉を寄せる。


「ここって……昔来た時、こんなに混んでたっけ?」

「ああ、お前は地元離れてたから知らないか。わりと最近、新アトラクションができたんだよ。それが人気なんだと思うぞ」

 言いながら、達也が伸ばしてきた手を、真梨乃は不思議そうに見やる。

「なに?」

「はぐれたら困るだろ。だから」

 それ以上何とも思ってなさそうな達也の顔に、真梨乃もとくに何とも思っていないような表情を作って、その手にみずからの手を重ねる。

 やだ……これじゃまるで昔に戻ったみたいで、勘違いしそうになるじゃない………。

 困る。自分が、じゃなく、達也に現在別の恋人がいる場合を考えるとだ。車を見る限りあまり女っ気は感じられなかったけれど、だからといっていないとは限らない。真梨乃にしてみれば、いまとなってはただの友達だけど、周囲の人間までそう見てくれるとは限らない。誤解されて面倒に巻き込まれるのはごめんだ。だから、「やっぱり手を放そう」と達也に提案しようとしたのだけど。あまりにも自然な様子の達也を見ていたら、何も言えなくなってしまった。

 ごめんなさい。いるかいないかわかんない、達也の新しい彼女さん。今日だけ、今日だけ達也を貸して。今日という日が終わったら、ちゃんと貴女に達也を返すから──────。

 入場料金を払う段になって、真梨乃は自分の分を出そうとしてバッグから財布を出しかけたのだけど、それよりも素早い動きで財布を出した達也によって、あっという間に二人分の料金を払われてしまった。


「あ、あたし自分の分は出すよ」

「いいよいいよ。会社つぶれちまって大変なんだろ。俺バイトしてるし、今日はおごってやるよ」

「そんなの悪いよっ だっていまは……」

 恋人でも何でもないのに。そう続けようとしたけれど、何となく言いづらくなって、それ以上言えなくなってしまう。どうして? それはまぎれもない事実なのに。そんな真梨乃に気付かない様子で、達也は嫌みのない笑顔で笑う。


「いいって。その代わり、ちゃんと再就職できた暁におごってくれよ。それでチャラな」

 ほんとうに……達也は変わったと、真梨乃は思う。以前の達也なら、こんな風に他人に気を遣わせない言い方なんかできなかった。離れていた二年余の間に、いったいどこまで大人になってしまったのだろう。

「あ…ありがとう」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。

「そんなことよりさあ、やっぱ一発目はジェットコースターだよな、行こうぜえ」

 昔とあまりにも変わらない様子で言うから。

「えっ まだそんなこと言ってんの? 最初は肩ならしでもちょっとソフトなヤツにしようって、あたし前から言ってんじゃんっ」

 つい、昔のように言い返してしまう。

「なーに言ってんだよ、やっぱこういうとこの醍醐味は絶叫系だろー?」

「じゃあ、ちゃんとお化け屋敷も入ってよね、それだって醍醐味のひとつなんだからね」

「え」

 そのとたん、達也の顔が急激に青ざめた。やっぱりと思う。相変わらず、絶叫系は大好きなくせに、ホラー系はダメなのだ。昔つきあい始めたばかりの頃、真梨乃が観たいと言ったホラー映画を、「情けない男だと思われたくなかったから」という理由で苦手なのを隠して無理に一緒に観に行って、真梨乃よりよっぽど大きな悲鳴を上げて抱きついてきたことがあった。そんなことを思い出して思わず笑ってしまった真梨乃の考えていることがわかっ たのか、達也が真梨乃の首に腕を回してきた。

「よけーなこと思い出すなよ、こらっ」

「何よー、あたし何も言ってないじゃないーっ」

「顔見りゃわかんだよっ」

「えー?」

 くすくすくす。もう、笑いが止まらない。

「誰かさんがすごい悲鳴上げたことなんて、あたし思い出してないわよー」

「やっぱ思い出してんじゃねえかーっっ」

「だって、ホントにすごい声だったんだもーん」

「まだ言うか、こらっ」

 ほんとうに。あの頃に戻ったみたいで、楽しくて仕方ない。けれど、そんな気分をあっという間に現実に引き戻す大声が、辺りに響き渡った。

「どういうことよっ!?

 驚いて思わずそちらを見ると、何人かで来ていたらしい女の子グループの中のひとりの女の子が、カップルらしき男女の男のほうに詰め寄っていた。

「今日はバイトだって言ってたじゃないっ なのに何で、こんなとこに全然知らない女とふたりでいるのよっ!?

「あ、いや、彼女は〜……」

 男のほうは、すっかりしどろもどろだ。

「何あれ」

「あれじゃない? 彼女にはバイトって嘘ついて他の女の子とデートしてて、彼女のほうは女友達と遊びに来ててバッタリってパターン」

「うわ〜、修羅場ってヤツ? 入った早々でそれはキッツいなあ」

 周囲の人々のひそひそ話が、真梨乃の耳に届く。達也にも聞こえているだろうが、達也は何も気付かなかったような顔をして、真梨乃の首に回していた腕をそっと外し、真梨乃の手を再び引っ張る。

「一発目はジェットコースター、これだけは譲れないかんなっ 早く行こうぜえっ」

 その声が合図となったのか、周囲の人々もようやくハッとしたように元のにぎわいに戻る。もめていた当人たちだけはこれ以上他人の注目を集めることをよしとしなかったのか、ひとけのない端のほうへと去っていってしまった。見知らぬ他人のことで、自分たちには何ら関係のないこと だったけれど。それまで浮かれていた真梨乃の心を現実に完全に引き戻すには、十分な出来事だった。

「真梨乃? そんなにお化け屋敷行きたいんなら、後で一回だけつきあってやるよ。いいな、一回だけだぞっ!?

 本気で嫌そうな顔で言う達也に、真梨乃は思いっきり吹き出してしまった。先刻の出来事を、深く深く心の奥に刻みつけながら───────。




           *      *     *




 その後は、何の問題もなくさくさくとすべてが進んだ。


 ジェットコースターはさすがに少し混んでいたものの、新アトラクションのおかげか以前ほど待たずに乗れたし、その新アトラクションも想像以上に恐いものだったらしく、同 年代の男の子たちがあられもない悲鳴を上げるのを聞いたとたん達也は「混んでるみたいだし、また次の機会でいっかあ」などと強がり百パーセントの声であっさり諦めたので、あまり絶叫系が得意でない真梨乃は心底ホッとしてしまった。他の乗り物に乗ったり、お化け屋敷で初めは平気な顔をしていた達也が、先に進むにつれて余裕がなくなっていくのを見たりしたら、もう楽しくて。真梨乃は久しぶりに、声を上げて笑っていた。心の奥底には、どうしても忘れられない楔があったけれど。それはできるだけ表に出さないようにして、真梨乃は心底楽しそうに振舞った。

 けれど、どんなに楽しい時間も、いつかは終わりの時がやってくる。

「あー、遊んだ遊んだ。そろそろラストのに乗る時間かな。真梨乃、お前は何に乗りたい?」

 ラストという言葉に小さな痛みを胸に覚えながら、真梨乃はずっと考えていた乗り物に向かってそっと指を差す。

「あれ。あれがいい」

 それは、観覧車。いつもここでのデートの時は、最後に乗っていたものだった。思えば、ファーストキスもあの中でだった。

「いいぜ」

 達也は忘れているのかとぼけているか、平然とした表情で答え、真梨乃と一緒に観覧車に乗り込んだ。ふたりの乗ったゴンドラは、ゆっくりと、けれど確実に上に上がって行き、下からでは決して見えない市街地をその眼下に披露してくれる。そのあまりの懐かしさに、真梨乃の胸がほのかに温かくなる。

「……昔は、地元の遊園地なんてちゃっちいなんて思ってたのに。いまは、すごくホッとする。あたしにはまだ帰れる場所があったんだって、いつでも帰ってきていいんだよって言われてるみたいで」

 ほんの二年間離れてただけで、おおげさかも知れないけどね。

 そう続けながら、気恥ずかしそうに笑って達也のほうに向き直ると、達也は感情の読めない顔をして、真梨乃の顔をまっすぐ見つめていた。真梨乃の胸が、一瞬高鳴る。

「ど…どうしたの?」

 真梨乃の問いには答えず、達也がそっと口を開く。

「──────俺。賭けのつもりだったんだ」

 賭け? いったい何が?

「何のこと?」

「真梨乃がいまもあのメルアド使ってくれてるなら……あのメールがちゃんと届くなら、真梨乃はいまも俺のこと忘れてなんかないって」

 自分の胸が大きく高鳴るのが、真梨乃にはわかった。あのメルアド────高校時代に親に携帯を買ってもらった時、先に持っていた達也にどんなメルアドにしたらよいか相談した際、「アルファベットだけでなく数字とかも入れたほうが、スパムとか迷惑メールが来にくいぞ」とアドバイスされて、「なら数字は、ふたりがつきあい始めた記念日にする」と言って決めた、あのメルアドだ。

「あ…あれは、単に変えるのが面倒だっただけで……」

 言い訳だ、と自分でも思う。

「届いたとわかった時、俺心の中で小躍りしたよ。そしたら間髪入れずにメール返信でなくて、電話で返事だろ? 俺、もう狂喜乱舞だったよ。単に俺のメルアドを覚えていたとかそんなんじゃなくて、真梨乃は俺のこと登録抹消しないでいてくれてたんだって」

「べ、別にまだ未練があったとかそんなんじゃなくて…っ ただ消すのを忘れてただけで、他意なんてないわよっ」

 馬鹿みたいだと、真梨乃は自分で自分のことを思った。そんな内心も、いまの達也にはきっとお見通しに違いなくて────伊達に長いつきあいを経ていない────いまの自分は滑稽そのものだと。真梨乃は思う。

「お前は全然訊かなかったけど。俺は、あれ以来誰ともつきあっていないよ。ずっと、真梨乃のことが忘れられなかった。だから、逆に訊けなかった。お前はいま誰かつきあってる奴がいるのかって。もし『いるよ』なんてあっさり答えられたらどうしようって、怖くて仕方なくて」

 ああ。ほんとうに余裕のない時の達也の顔だ。

「つきあってるひとなんて……いないわよ」

 そう答えた瞬間、死刑宣告された被告のようだった達也の顔が、無罪を言い渡されたかのようにぱあっと輝いた。

「じゃ、じゃあ俺ともう一度…!」
 と達也が言いかけた瞬間、ガッタン!という音がしたと同時にゴンドラが大きく揺れて。笑顔の係員が、「どうもお疲れさまでしたーっ」と手早くドアを開けてきたので、ふたりはそれ以上話すこともできず、無言でゴンドラから下りて歩き出す。そしてどちらからともなく達也の車へと戻り、それぞれにドアを開けてシートに乗り込む。

「………………」

 カーステレオからは、昔よく一緒に聴いた洋楽のCD。懐かしくて、涙が出そうになる。達也は、どこに向かっているのか一言も言わない。やがて真梨乃は、窓から見える風景がこれ以上ないというぐらいに懐かしい風景になっていくことに気がついた。

「ここ…!!

 達也が車を停めたのは、学校────それも卒業した高校の正門前。卒業式のあの日、大ゲンカしたまま道を違えて歩き出した、あの場所だ。夏休みの、もう夜に差し掛かっている時間となると、校庭にも付近にももう誰もいなくて。職員室であろう部屋の窓から、わずかな明かりが見えているだけだ。教師も全員そろっている時ならともかく、何かと節約を叫ばれる昨今、いる人間が必要な分しか電気をつけないのだろう。

 お互い何も言わないままなのに無意識に降りて、思わず全景を眺めてしまう。三年間、ここでたくさんの想い出を作った。楽しいこともあったけれど、悲しいことも腹が立つこともたくさんあった。だけど、いま胸に去来するものはただ懐かしさばかりで…………。

「あの時─────意地を張って、お前と違う道を歩き始めちまったここで、いや、ここだからこそ改めて言うよ。俺は、あの後もずっとお前だけが好きだった。だから、もしもお前も同じ気持ちなら……ここからもう一度始めたい。俺と、もう一度やり直してくれないか─────?」

「…っ!」

 達也の気持ちは嬉しい。真梨乃も同じ気持ちだったから。だけど。

「今度こそ、大事にする。もう二度と後悔したくない」

「あ…あたし……」

「真梨乃?」

「あたし、達也にそこまで想ってもらえる資格なんか…ない」

 ぽろりと、涙が頬を伝う。

「携帯の達也の登録を消せないでいたくせに、他の人にふらふらしちゃうような女なのよ? こっちに帰ってきてからだって、達也に再会して、何か期待しちゃうようなサイテーな女なのよ……こんな女なのに、ずっと想っててくれた達也に釣り合う訳、ないよ──────」

 ぼろぼろぼろ。もう涙が止まらない。脇を通って行く他の車のヘッドライトに気付いた達也が、真梨乃をもう一度助手席に押し込んで、自分は運転席に乗り込んでからもう一度車を発進させる。今度は、昔よく一緒に来て話をしていた神社の境内だった。小さい神社だったから、こっちは街灯の明かりがさすばかりで車の一台も通りはしない。

「ふらふらって……向こうで誰かとつきあってて、俺と同じように別れて帰ってきたってことか?」

 不安そうな達也の声に、真梨乃は首を大きく横に振る。

「ううん…あたしが勝手に憧れてただけ。取引先の営業の人で、何度も声をかけられてたから、勝手に舞い上がっちゃって……だけど、あっちにしてみたら、ただの営業活動の一環で……同僚の人と話してるのを偶然聞いちゃったの。『営業に有利になるかと思って声かけてたけど、会社がなくなっちゃうなら何の意味もないな』って。だからあたし、もう恋なんかしないって思いながら帰ってきたのに……達也と再会しただけで、決心がすぐにぐらついちゃうようなサイテーな女なのよ、あたしって」

 恥ずかしくて、顔が上げられない。堪えきれない涙がぼとぼとと脚の上に置いた手の甲に落ちる。あんなに固く決意していたのに、達也に再会したとたんぐらつくなんて、最低というしかないではないか。こんな女、達也だってきっと呆れるに決まっている。正直に話したとたん、黙り込んだのがよい証拠ではないか。自分だって自分に呆れているのだ、他人ならよけいそう思うに違いない。

 けれど、達也が次に口にしたのは、真梨乃が予想もしていなかった言葉だった。

「それくらいでサイテーだって言うんなら…俺だってサイテーだぜ?」

!?

「電車の中で再会した時、あの後一緒にいたあいつらにさんざん『友達だってんなら、あのコと橋渡ししろよー』ってせっつかれたんだ。だけど、断り続けた。真梨乃が好きだからっていうより先に、『別れたからって他の奴に渡せるかよ』って惜しくなったってのが大きかった。そんで今日、めいっぱいおしゃれして昔よりずっと綺麗になった真梨乃を見たら……もう、誰にも渡したくなくなった。昔の真梨乃をずっと好きだったはずなのに、もう しっかり別れてるのに、綺麗になったのを見たとたん、他の男に渡すのが惜しくなった。これをサイテーと言わずに何て言うんだ?」

「そんなこと…!」

 涙に濡れた顔を上げたとたん、深い自嘲を刻み込んだ達也の顔と目が合った。わざわざ確認しなくても、達也のことなら顔や様子を見たらわかる。

「だから、何が言いたいかってーと……サイテーな者同士、俺らってお似合いなんじゃね?ってことで」

 またしても、予想もしていなかった言葉。

「だから……俺と、もう一度つきあってくれ」

 今度は真顔で、達也はハッキリと言った。サイテーな者同士、お似合い? そんな強引な論法、初めて聞いた。もう堪えきれなくて、目尻に涙を浮かべたまま、真梨乃は笑い出してしまう。

「もう……そんなめちゃくちゃな話、聞いたこともないわよ」

「いやか?」

 ちょっとだけ心配そうに、達也が真梨乃の顔をのぞきこんでくる。

「ホントにもう…相変わらず、馬鹿なんだから」

 言いながら、達也の胸に顔をうずめる。

「こんなサイテーなふたり、他の人に相手にされる訳ないんだから、このふたりでくっついてるしかないじゃない」

 もう自分でも泣いているのか笑っているのかわからない。そんな真梨乃を、達也の腕が強く抱き締めてくる。懐かしい、だけど以前とはどこか違う、達也の腕。誰よりも安心できる、大好きな達也の腕──────。

「もう、放さないからな」

 強い、決意を秘めた声。

「うん。もう、離れないよ………」

 そうして真梨乃は、ずっと忘れられなかった大事なものを、再び手に入れた。強い強い、決意と共に──────。


 それから。


 達也の夏休みが終わるのとほぼ同じ頃に、真梨乃の再就職が決定した。

「また、あまり大きくない会社なんだけどね」

 夜、例の神社の駐車場で停車したままの達也の車の助手席で、真梨乃は苦笑いを浮かべる。

「よかったじゃん。ちゃんと入社したら、また改めてお祝いしような」

 そう言って笑いながら達也がかざしたのは、先刻達也が買ってきてくれたペットボトル。

「ありがと」

「それと」

 突然声のトーンが変わった達也に、不思議に思って真梨乃は首をかしげる。

「取引先の営業や先輩に声かけられたって、ふらつくのは禁止な。二年前からこないだまではともかく、お前はいまはもう俺のものなんだからな」

 肩に腕を回されて引き寄せられて、額にこつん…と達也の額が当てられる。

「馬鹿ね」

 くすっと笑いがもれる。

「こんなサイテーな女、達也以外につきあえるひとがいる訳ないでしょ」

 そう言ってやると、達也からも笑いがもれた。

「違いないな」

 くすくすくす。その後は、もう言葉は必要なかった。



──────途中で何度道が別れても。あたしが帰ってくるのは必ず達也のところだから。だからずっと、安心して待っていてね……………。





〔終〕








誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はブログにて




2010.9.4up

初めて書いた元鞘カップルです。
一度辛い別れを経験した分、これからはより幸せになってもらいたいものです、はい。


背景素材「空に咲く花」さま