──────昔から、背は高いほうだった。
「舞香先輩、素敵ーっ」
「もうっ そこらの男なんかより、断然カッコいいーっ!」
……それだけで、何故こんなにも女の子に好かれることになるのだろう。
ほぼ170cmといっていい身長に加え、整った目鼻立ちの凛々しいと表現するにふさわしい顔立ちとすらりとしたスタイルのためだということに、七尾舞香は気付いていない。更に、その身長と運動神経に恵まれていることに反して、どちらかというと文化的なことに興味があるタイプだったので、女子が大多数の合唱部に入ったことも、それに一役買っていることを……舞香は知らない。
これではいけないと思い直し、髪を伸ばし始めてみたところで、体育祭の応援団でその髪を結んで学ランを着たり、文化祭のクラスの劇では王子役を演ったことも拍車をかけてしまって────これは舞香自身の意思ではなく、クラスのほぼ全員の女子たちに押し切られた結果だ────大学に進学して好きな格好をできるようになったのを機に、以前から憧れていたふわふわの髪にするべくパーマをかけてみたり、フェミニンな服を着てみたりして、方向転換を試みた。
その結果、大学では「ちょっとカッコいい女の子」と評される程度になったので、胸を撫で下ろしたのは、ちょっとした秘密。慕っていた先輩の亜衣子を追いかけて女子大に行かなかったことも、よかったのかも知れない。何しろ、そんな恰好をしている舞香は数多い男子生徒に紛れていれば、下手に女子の間で騒がれることもなくなっていたから。
そして、いま。やはり昔からの憧れであった喫茶店のウェイトレスのバイトを始め、それなりに充実した日々を送っていた─────ただひとつのことを除いては。
カランカラン…と店のドアが開く音がして、舞香は反射的に振り返って笑顔で声を上げる。
「いらっしゃいませー」
「……ただいま」
入ってきたのは、つい先日衣替えを終えたばかりだという、学ランを着た少年。大学一年の舞香よりひとつ年下の、マスターの甥でこの店の住居部分に下宿して高校に通っているという北村輔(たすく)だった。
「お帰りなさい」
笑顔で応える舞香を一瞥しただけで、輔少年は学生鞄を手に奥の住居部分へと進んでいく。すれ違う時に垣間見た彼の身長は、また少し伸びているような気がして……もう少しで舞香の頭頂部が顎の辺りになるのではないだろうか。男の子は高校で一気に伸びるというのはほんとうだなと舞香はそっと思う。
「相変わらず愛想のない甥でごめんねえ、舞香ちゃん」
人の好さそうな、髭をたっぷりとたくわえたマスターが申し訳なさそうに言うのを、舞香はふるふると首と手を振って応える。
「いいえー、高校生くらいの男の子なんて家じゃあんなものだってわかってますから。どうぞ、お気になさらないでくださいな」
自分の弟がちょうど今年高校に入ったばかりで、やはり急激に愛想がなくなったのを母と共に嘆いていたので、マスターの気持ちはよくわかる。
それでなくても、自分があまり好かれていない理由も…舞香はよくわかっていたから。それは、この店にバイトで入って間もなくの春。店の裏手にあるゴミバケツにゴミを入れに行こうとした舞香は、偶然見かけてしまったのだ。学校から帰ってきていた輔と、同級生らしい少女が話しているところを。
「ねえ、何でそんなに冷たいのよ!? こっちは友好的に話してるんだから、もう少し愛想よく応対してくれたっていいじゃないっ」
どうやら、あまりにも無愛想な輔に対して、少女の堪忍袋の緒が切れたところのようだった。マズいと思って、舞香は開けかけたドアを閉じてそこに張り付きながら、ハラハラした気持ちを抱えたままことのなりゆきを見守っていた。出歯亀をするつもりでは決してなく、ゴミ袋を持ったまま戻ったら、マスターに不審に思われて、結果的に輔のプライバシーともいえる部分を他人に漏らしてしまいそうだったからだ。
そして聞こえてきたのは、絶対零度を思わせるほどの輔の冷たい声だった。
「チャラチャラした女、嫌いなんだよ。つーか来るなっつってるのに下宿先まで押しかけてくんなよ、迷惑」
その後は、女の子は激しい泣き声を上げて走り去ってしまったようで…それに対して、ほんとうに迷惑としか思っていないような、輔の盛大なため息が聞こえてきて。そのまま、住居の出入り口のほうに向かっていった足音が聞こえたので、舞香はそっとドアを開けて、辺りを確認してからゴミバケツに向かう。
そして、彼が初対面の時から自分に心なしか素っ気なかった理由を知った気がした。
『チャラチャラした女、嫌いなんだよ』
高校までの舞香を知らなければ、いまの舞香は彼が言う「チャラチャラした女」そのもので────バイトの時は長い髪をきちんと束ねて、できる限り邪魔にならないような服装をしているけれど────だから、好かれる訳もないと思った瞬間、胸の奥がツキン…と痛んだ気がした。理由なんて、自分でもわからないのに。
だから、なるべく彼の気に障らないように挨拶と必要以上の会話をしないように心がけて、丁重に接してきたつもりだった。自分の内面を何も知らないのに嫌われるのは、非常に辛かったけれど……相手のほうに知る気もないのでは致し方ないと思い、当たり障りのない態度で接してきた。いままでは。
それは、唐突にやってきた。いつものように学校から帰ってきた彼は、「もうじきテスト週間に入るから、予定通り今日から店の手伝いはできない」とマスターに告げて、あらかじめ告げられていたらしいマスターが快諾して、彼が住居部分へと戻ろうとしたところで、どやどやと入ってくる数人の客。
「マスター、舞香ちゃん、またきちったよー」
「あ、いらっしゃいませー」
近くの大学に通う、常連客たちだった。
「あれ? 初めて見るお顔もいるね」
マスターの言葉に振り返った舞香は、一瞬目を疑った。この春まで、同じ高校に通っていた見知った顔が、常連客の中に混じっていたからだ。
「片山くん…?」
「あれ、舞香ちゃんこいつ知ってるの? 同じ大学の奴なんだけど、マスターのコーヒーが美味いっつったら是非飲んでみたいって言うから連れてきたんだ」
「七尾? お前、七尾か!?」
「高校の、同級生なんです」
「へー、そんな偶然あるんだなあ」
感心するように言いながら、連中は適当な席に座る。注文を受ける準備をしながら彼らのそばに立った舞香の背後で、輔が歩き始める気配。
「しっかし、お前誰だよって感じだな。高校の時と全然違うじゃねえか」
片山が、唐突に言い出した。
「高校の時は、ヅカの男役みたいに女子にきゃーきゃー言われてたくせによ」
思い出したくないことを言われて舞香の胸がズキリと痛むが、あえて黙殺して仕事に集中しようとする。
「おい、やめろよ」
不穏なものを感じたらしい他の仲間が声をかけるが、片山は止まらない。
「あ、あれかっ 見た目は男っぽいけど、実は女らしいカッコに憧れてましたってヤツかー? 少女マンガのヒロインかよっ」
嘲笑の響きを隠しもしない片山の言葉に痛む心を懸命に堪えながら、舞香は笑顔を絶やさない。確かにその通りではあるが……こうやって他人に口に出して言われると、まるで刃物でえぐられているかのごとく心に傷が走り、痛みも倍以上になるような気がしてくる。
「やめろって言ってんだよ、お前すげー感じ悪いぞ!」
諌めるような仲間の声も、片山を止められない。
「可哀想にな、必死に女らしくしたつもりなんだろうけど、あんま似合ってないぞー?」
「!!」
ついに、舞香にも限界が訪れて……もう堪えきれなくなって、涙がこぼれそうになった、まさにその瞬間!
「!?」
とっくに住居部分に戻ったと思っていた輔が、手に持ったお冷やのグラスを、片山の頭上から勢いよくぶちまけたのだ!!
「わあああっ!?」
片山が思いきり叫んでから、剣呑な表情を浮かべてすぐ後ろの輔を振り返った。
「な…何だよ、てめえっ!?」
「…いい年して、さっきから見苦しいんだよ、あんた。少しは頭冷やせよ」
「んだとうっ!? ガキのくせに生意気なっ」
いきりたった片山が派手に椅子を倒して立ち上がったので、舞香は一瞬悲鳴を上げそうになってしまった。輔が殴られると思ったのだ。しかし、片山が輔に対峙しようとした瞬間、心得ていたらしい片山の連れの常連客たちが、一斉に彼を押さえ付けた。
「片山、彼の言う通りだぞ」
「お前、すっげー失礼なこと言い過ぎ! 舞香ちゃんに謝れよ」
周囲の人間は、完全に輔の味方のようなので、更に頭に来たらしい片山が、今度は周囲に向かって喚き散らす。
「何だよ、お前らこいつの味方すんのかよっ」
「少し、外で話したほうがいいな」
「これ以上店に迷惑をかける訳にもいかないしな」
「舞香ちゃん、こいつの言ったことなんて気にすんなよー。こいつがバカなだけだから」
口々に言いながら、青年たちは皆で片山を羽交い絞めにして店の外に出ていく。
「ごめんな、マスター、騒がしくしちゃって」
「舞香ちゃんもごめんな、こんな奴連れてきちゃって」
皆が出ていくと、店の中が一気にシーンとして。それからすぐに、輔が奥からモップを持って現れた。先ほどこぼしたお冷やの水を拭くためだろう。そして床を綺麗に拭き取ってから、舞香に向かってもう片手を差し出す。
「?」
「それ、よこしな。後は俺が手伝うから、休憩行っていいよ」
それ、とは注文をとるためのオーダー表とボールペンらしい。
「え…でも……」
彼は確か、そろそろテスト週間が始まるから、店を手伝えないと言っていたはずじゃ…。
「そうだね、舞香ちゃん休憩に入っておいで。後は輔が手伝ってくれるから」
「舞香ちゃん、休める時は休んでおいたほうがいいぞー。社会人になると、休みたくてもそうそう休めねえから」
「とか言いながら、てめーは自分の店をかーちゃんにまかせてここでコーヒー飲んでんじゃねえかよ」
マスターや、近所の常連の人々が口々に言うので、舞香も厚意に甘えることにして、「じゃ、じゃあ、少しの間だけお願いします」とだけ言って、オーダー表とペンを輔に渡して奥の控室へと早足で駆け込んだ。
「…………」
閉めたドアに背をあずけたとたん、瞳からぽろぽろと溢れ出す涙。片山の言ったことは、ほとんど当たっている。「合唱部のアイ・マイ・ミートリオ」などと呼ばれていても、女らしくてたおやかな亜衣子や、クォーターで中身も外見も可愛らしい未唯菜に比べて、自分には華が足りないことも重々わかっていた。だからといって、男子にまで片山のように扱われて、傷つかないはずもない─────それは、女子の人気を一身に集める舞香への嫉妬の果ての態度だということを、舞香は知らない。いままでだって、誰もいないところでこんな風に泣いたことも一度や二度ではなかった。
けれど。今回だけは、違っていた。輔やマスター、そしてもともとのこの店の常連客など、以前の自分を知らない人たちに過去を知られたことは辛かったけれど、それ以上にそんな自分の心の傷を見抜いて労わってくれたことが……何よりも嬉しかった。だから、自分は平気。まだ、癒しきれていない心の傷はあるけれど…皆がいてくれるなら、きっと強くなれるから。
まだ涙は止まらないけれど、舞香の心はいままでのどんな時よりもちゃんと前を向いていて。どんな壁も、きっと越えていけると……自分自身で確信していたから、だから。しばしの間だけ涙を流した後は、きちんと身支度を整えて、舞香はホールへと戻った……。
そこでは、先刻より増えていたお客を相手に、制服の上衣を脱いだ輔がその上にエプロンを羽織り、慌ただしく応対しているところだった。それを見た舞香は、慌てて輔に駆け寄って、輔が持っていたコーヒーの載っていたトレイを受け取った。驚いたような顔で、輔が振り返る。
「ごめんなさい、テスト前だって言ってたのに、手伝わせちゃって……後は私がやるから、勉強に戻って?」
労わるようにそれだけ告げると、輔がじっと舞香の目を覗き込むように見てきたので、何となく気恥ずかしくて思わず視線をそらす。
「…これ、二番さんに持ってってくれ。あと、いま入ってるお客さんはみんなオーダー通してあるから」
「わかったわ、ありがとう」
トレイに加えてオーダー表とペンを受け取って、舞香は二番テーブルへと向かう。
「お待たせしました、レモンティーのお客さま」
背後から、自分を見つめている輔の視線に、まるで気付かないまま。
「じゃあ叔父さん、俺部屋に戻るから」
「はいよ、お疲れさん」
何も、気付かなかった…………。
それから。
「よい…しょっと!」
閉店後の店内で、少々重い荷物を持ち上げた舞香の脇から、伸ばされる二本の腕。
「え?」
「こういう重いヤツは、俺か叔父さんにまかせておけっての。無理しないでいいから」
「…!」
心なしか輔の態度が軟化したことに、さすがの舞香も気付いて驚きを隠せない。
「……勝手な思い込みで冷たくしてて、悪かったよ、いままで」
こちらに顔を見せないままの輔の耳まで真っ赤になっていることにも、舞香はちゃんと気付いていて……知らず知らずのうちに、口元に笑みを浮かべていた。
「…ありがとう──────」
その後のふたりの関係がどう変化したのかは、これ以上は言わぬが花というものであろう──────。
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