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 それは、いつもと変わらない朝に思えた。


 窓の外では小鳥たちがせわしなくさえずり、家の近くでは辺りを歩いているらしい近所の人たちが挨拶を交わす声も聞こえてくる。けれど、ひとつだけいつもと違っていたことは……枕元に置いたままの携帯。誰かから電話がかかってくる予定でもなかったけれど、ついそばに置いて眠ったのは、今日の朝起きた時に確かめたかったのかも知れない。昨夜の、着信履歴を。


 まだ、実感がわかなかったから─────高坂が昨夜突然電話をかけてきて、呼び出された先の公園で互いの想いを確かめ合えた、なんて……。軽く目をこすりかけてハッとした亜衣子は、慌てて近くの鏡で確認をする。昨夜眠る前にちゃんとケアをしたおかげで、目元が腫れている様子がなかったのでホッとする。そんな顔を見られたら、父親はきっと心配するだろうし、今夜バイトで家庭教師に行く先の少女にも何を訊かれるかわからないからだ────中三という思春期真っ只中の年齢のせいか、こと恋愛事に関してはとても鋭いのだ。

 鏡と入れ代わりに携帯を手に取って、着信履歴を確認する。昨夜の二十四十五分過ぎ…発信者の名は「高坂慎吾」。まぎれもなく、愛しい相手の名が記録されている。

「夢じゃ…ない……わよ、ね?」

 誰にともなく呟いてしまう。それから何となく携帯を持ったまま階下に下りていき、既に起きていた両親と朝の挨拶を交わしてから洗面所へ。その後また部屋に戻り、身支度を整えてから両親と共に朝食を摂って、会社へでかける父を母と並んで見送って玄関から中に戻ろうとしたところで、ポケットに入れていた携帯が鳴り響いたのでどきりとしてしまう。

  発信者を確認すると、視界に飛び込んでくるのは誰でもない高坂の名前。母親が目の前にいるので一瞬悩むが、とりあえず部屋に行こうと思いつつ、着メロを鳴らしたまま階段を駆け上がる。まだ高坂限定の着メロを何にするか決めていなかったので、他の友人たちとのそれと変わらない曲のはずなのに、階段の折り返し地点の所からちらりと見えた母の顔は満面の笑顔で、もしかしたら母はすべてお見通しなのではないかと亜衣子に思わせる。部屋に戻ると同時にドアを閉めて、オンフックボタンを押して携帯を耳に当てると、低い、穏やかな声が聞こえてくる。

『…おはよう。もう起きてたか?』

「おはよう。ええ、大丈夫よ、もう朝食も済ませたし」

『そっか。俺はまだ、いま起きたとこだよ』

「いいんじゃない? まだ夏休みだし」

 他愛のない話をしながらベッドに腰を下ろして、レースのカーテンの向こう側の青い空を見やる。今日もいい天気になりそうだ。絶好の洗濯日和だなとそっと思っていた亜衣子の耳に、一瞬の咳払いの後に聞こえてきた高坂の言葉に、胸の鼓動が一気に高鳴った。

『あの…さ。夢だとは思えないんだけど、一応確認したいんだけどさ。昨夜のことって……夢じゃ、ないよな──────?』

 昨夜のこと─────想いを確かめ合って、互いの身体を抱き締め合って、恥ずかしい顔を見られながらも『どんな顔でも可愛い』と言われて、『友人としてでなく、恋人としてこれからつきあってほしい』と申し込まれて、それから……額にキスまでされてしまったこと……だろうか…? 改めて思い出すと、恥ずかしくて仕方ない。

「あ…うん、えっとその……」

 何と答えていいかわからず、とりあえず肯定の返事を返した亜衣子の耳に届いたのは、信じられないほどにテンションの上がった高坂の歓喜の叫び。驚いたのと、あまりの声量の大きさに耐えきれず思わず携帯を耳から離したところで、ハッとしたような声が聞こえてきた。

『あ、ごめん、ちょっと嬉し過ぎて……』

「あ、大丈夫。私も現実だと認識しきれなくて、朝一で携帯の着信履歴を確認しちゃったし」

 高坂も同じなのだと思ったら、とたんに気が楽になった。が、その直後、唐突に予想外の言葉を言われて、完全にパニック状態になってしまうのだけど。

『……亜衣子。大好きだからな』

 あまりにも驚いてしまったがために、自分でも何を言っているのかわからない言葉が口を飛び出していく。携帯の向こうから聞こえるのは、楽しくて仕方がないといった感じの高坂の笑い声。前言撤回だと亜衣子は思う。やっぱり、高坂のほうが自分よりずっと上手だ。昨夜のいたずらっ子のような言動といい、いまのこのストレートさといい、亜衣子がずっと抱いていた高坂のイメージとずいぶん違うけれど、いまの彼のほうが、ちゃんと血の通っている人間だと思えて、ずっとずっといいと亜衣子は思う。自分だって、みずからが抱いている自分自身のイメージと、高坂が抱いているイメージとはずいぶん違っていたようだから─────亜衣子には、どうしても自分が高坂の言うように可愛い存在とは思えなかったから、だから…………。

『今度…どこに行きたいか、考えといてくれな。車とかバイクはないから、どうしても電車やバスでの移動になっちまうけど』

「ううん、そんなこと全然気にならないわ。一緒に…居られるのなら…………」

 恥ずかしかったけれど、それは言わなくてはいけないことだと思い、何とか自分を奮い立たせて告げると、高坂のホッとしたような返事。

『…ありがとうな』

 そう。贅沢なものなんて何ひとつ要らない。高坂と一緒に居られるのなら、どこだって構わないのだ。まあ、祐真や未唯菜など、知っている人がいないところで、という条件はつくが。それから、今日は午前中からバイトだという高坂の時間の都合のためにすぐに電話を切って、携帯を胸元に抱き締めて幸せを噛みしめる。ほんとうに…こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。

 高校の頃から、結花に「好きなひとがいるなら、告白しちゃえばいいのに」とさんざん言われたけれど、どうしても勇気が出せなくて……どうせ進路が分かれるのだから、卒業と同時に告白してしまおうかとも思ったが、ただのクラスメート以上の感情しか持たれていないであろう自分に告白されても、きっと迷惑以外の何物でもないだろうと思い、何も言えなかった。その晩は、身体中の水分が流れていってしまうのではないかと思うほどに泣いたというのに……。もしもあの時、告白していれば…何かが変わっていたのだろうかと思うが、いまさら言っても栓ないことだと思い、不毛な思考を打ち切った。 そのとたん、卒業後最近はあまり連絡をとっていなかった結花のことを思い出し、結花の携帯に電話をかけてみる。

『はい、亜衣ちゃん? 久しぶり〜、元気だった?』

「うん、元気よ。結花ちゃんも元気そうでよかったわ。いま、時間大丈夫?」

『うん、大丈夫よ。どうかしたの?』

「えっと…ちょっと話したいことがあるんだけど、近いうちどこかで会えないかなと思って。都合のいい日時を教えてくれない?」

『えーっと、いまちょっとすぐにはわからないから、わかってからかけ直してもいい?』

「ええ、構わないわ。他にもかけなきゃいけないところがあるから。じゃあ、お返事待ってるから」

 結花との電話を切ってから、今度は未唯菜の携帯にかける。未唯菜にもさんざん心配をかけてしまったので、ちゃんと報告しないとと思ったのだ。結花には好きなひとがいるとは話していなかったけれど、結花のことだからしっかり気付いていただろうなと思ったのだ。何せ、結花が中学の頃からつきあっている彼氏の渡部は、高坂とは中学時代からの親しい友人であるのだから。

『はいもしもーし、亜衣子先輩ですか〜?』

「はい、おはよう未唯菜ちゃん。その通り、亜衣子ですよー」

 朝から明るい後輩の声を聞きながら、自然と笑顔になってしまう。未唯菜というコは、他人をそうさせる何かを持っている気がする。結花に告げた言葉とほとんど同じ内容を伝えると、結花とほとんど同じ答えが返ってきたので、笑みを浮かべながらやはり同じ内容の言葉を返して通話を切る。その後は、母親に階下から呼ばれてしまったので、その電話の直後、亜衣子の知らないところで未唯菜と結花との間でどんな会話がなされていたのか。亜衣子には、気付くよしもなかった…………。




          *      *     *




 それから三日ほど経ったある日。亜衣子は未唯菜と共に、地元の市内にある店へと向かっていた。


「ねえ未唯菜ちゃん、いったいどこに向かってるの?」

「まあまあ、着いてからのお楽しみということで♪」

 どこへ向かっているのかまったく知らされていない亜衣子はたびたび未唯菜に質問するのだけど、未唯菜は前述の言葉を述べるばかりでまったく教えてくれない。「帰りは遅くなるだろうから、家の人にはちゃんと言ってきてくださいねー」とだけは言われたけれど、どこへ連れていかれようとしているのかさっぱり見当もつかない。

 やがて、一軒の店の前にたどり着いたところで、亜衣子が決して間違えるはずのない人物とばったり顔を合わせたので、驚いてしまう。この三日間、マメに電話はしていたものの、あの告白の日以来直接逢うのは初めてだったので、赤くなりかける頬を止めることができない。

「…亜衣子? 藤原さんも…?」

「こ…し、慎吾…さん」

 努力はしたものの、どうしても付け足さずにはいられなかった亜衣子の前で、高坂がどこかいたずらっぽいような、不服そうな表情を浮かべてずいと近付いてきたので、亜衣子の胸が早鐘のように激しく鼓動を訴えてくる。

「こら。何だ? 『さん』ってのは」

 余裕顔の高坂とは対照的に、亜衣子の顔が急激に紅潮していく。

「だ、だって、いままで名字でしか呼んでなかったのに、いきなり名前でなんて……それもハタチ過ぎた男の人に『くん』付けなんて…っ」

 いままで名前で呼べた異性なんて、幼い頃からの友達か祐真や親類の人間くらいしかいない────ついでにいうなら呼び捨てで呼べる相手など、女友達でもそうそういないのだ、そんな風に呼べというほうが亜衣子には無理な相談ともいえよう。そんな亜衣子の気性をよくわかっているら しい高坂は、「仕方ないな」と言わんばかりの表情で、軽く肩をすくめた。

「ま、亜衣子からしてみれば大進歩か」

「そ、それより、こ…慎吾、さんはこんなところでどうしたの?」

「え、いや、渡部に指定されたんで来てみたんだけど……」

「え? 私も未唯菜ちゃんに引っ張ってこられて…」

 ふたり同時に訝しげな表情を浮かべたところで、後ろから未唯菜がふたりの背を勢いよく押してきたので、思いきり驚いてしまう。

「さあさ、話はあとあと! とにかく中に入って入って!!

 未唯菜の迫力に圧される形で、高坂が隣に亜衣子を伴って引き戸を開けた瞬間。パーンッ!!とすさまじい音が連続して鳴り響いたので、亜衣子は思わず小さな悲鳴を上げながら高坂の腕にしがみついてしまった。高坂も驚いているようだが、とりあえず声は出さずに堪えたようだった。

「五年越しの片想い成就、おめでとさーんっ!!

 中から拍手や口笛、タンバリンやカスタネットなどの手軽な楽器の音と共に響いてくるのは、とても二人や三人とは思えないほどの声量の声。何が何だかわからずに、ほとんど無意識に亜衣子は高坂の顔を見上げるが、高坂もこれ以上ないというほどに目を見開いて前方の連中を見やってから、亜衣子の顔を見下ろしてふるふると首を横に振った。どうやらこれは、高坂も予想外のことだったらしい。

「な…何なんだよ? 俺はただ『話がある』って言って渡部を呼び出しただけだぞ? なのに、何で祐真をはじめとする剣道部の先輩後輩五年分の部員が揃ってるんだ!?

 高坂の言葉に、亜衣子も思わず面子を確認するが、この場に揃っているのは元剣道部の面子だけではなかった。

「合唱部のみんなまで……何でいるの…!?

 背後にいる未唯菜と、目の前にいる結花だけでなく、やはり同じように自分たちと面識のある五年分の元部員が揃っているのだ。さすがに完全に全員という訳にはいかないが。ふたりで目をむいている眼前に、結花の隣に寄り添うように渡部が奥から歩を進めてきた。

「だってよー、高坂から『直接話したいことがある』って連絡があって、結花には笹野のほうから同じような連絡があったってことは、これしかねーじゃんかよ。しかも高坂、おめー祐真に『姉ちゃんもらう』宣言したって?」

 …祐真に? そんなこと、高坂からも祐真からも聞いていなかったので、亜衣子は心底驚いてしまって思わず高坂の顔を見やるが、高坂は慌てふためいたように首を横に振りながら、「そんなことは言ってない」と焦りまくった声で答える。

「『姉貴を幸せにする』とは言ったけど、『もらう』なんてえらそうなことは言ってないっ!」

 「幸せにする」って……自分を? 高坂が自分とのことをそこまで真剣に思ってくれていたなんて、考えたこともなかった。亜衣子の顔が、かあっと熱くなる。

「まあそれはともかく、主役は特等席に座った座った!!

 奥のほうから駆け寄ってきた祐真に片手ずつ引っ張られ、亜衣子と高坂は上座にあたる席に並んで座らされる。互いの隣には、祐真と未唯菜。その向こう側には、それぞれの先輩や後輩がずらりと並ぶ。渡部と結花は、先輩後輩の全員と面識があるからか、すっかり司会者の位置に陣取ってしたり顔だ。

「さーて、お集まりの皆さん、急な召集にも関わらず、よくぞこれだけ集まってくださいました。今回司会を務めさせていただきます、元剣道部代表、渡部弘樹と」

「元合唱部代表、児島結花でーすっ くれぐれも『アンジャッシュ』と呼ばないでくださいねーっ」

 相変わらずユーモアセンスにあふれている結花に、場がどっとわいた。ほんとうに、変わっていないと亜衣子は思う。

「でもって、皆さんがやきもきしながら行く末を見守っていたお騒がせのふたりが、今回ようやくまとまってくれたということで」

「いざという時のために決めておいた緊急招集をかけさせていただきましたーっ さすがに全員は集まれませんでしたが、約三分の二の出席率で嬉しい限りです」

 そ、そんなに集まっていたのか。というより、そんなに多くの人数に互いの想いを知られていたのかと思うと、亜衣子は恥ずかしくて顔が上げられない。

「そしてこれだけの人数にも関わらず場所の提供をしてくださった、後輩の野瀬くんの親父さんに、皆さん感謝の拍手をお願いしますっ」

「ありがとうございましたーっ!!

 大きめの居酒屋とはいえ、これだけの人数が入る店がよく見つかったなとは思っていたが、そういう訳だったのか。野瀬は剣道部の後輩だったから知らなかった。

「あー、でも飲み食い始める前に、あたしからひとこと」

 渡部の持っていたマイクを奪うようにして、ショートヘアの女性が一歩前に踏み出してきた。確か亜衣子たちの一学年上の剣道部の先輩で、本橋先輩といったか。

「今日車やバイクで来た奴は、酒を一滴でも飲むんじゃねえぞっ あとまだ未成年も同様だっ この禁を破った奴ぁ、このあたし本橋茜と蓮川あおいが容赦しねえからなっ!!

 彼女の後ろでは、肩のあたりで切り揃えた髪のたおやかな美人が苦笑いしている。確か、剣道部のマネージャーも兼ねていた女性で、当時高坂と並ぶと似合いに見えてずいぶん落ち込んだことを覚えている。

「ところで本橋先輩と蓮川先輩って、どちらにお勤めでしたっけ?」

「あたしが地元警察署の少年課で、あおいが交通課だよ。よーく覚えておきなっ」

 結花の問いに、皆に向けて答えた茜の言葉に剣道部の面子が思いきり納得しているのを見て思わず隣の高坂に目をやると、高坂も力強く何度も頷いている。

「あ、亜衣子は知らないか。すっげー適材適所といえる進路なんだよ」

 そうだったのか。二人の性格まではよく知らなかったので、わからなかった。

「ところで慎吾せんぱーいっ いつから『亜衣子』って名前で呼ぶようになったんスか〜?」

 にやにやにや。祐真が高坂の背後から、人の悪い笑みを浮かべてふたりの顔を見比べてきたので、亜衣子は非常に居心地の悪い思いを味わってしまった。友人たちでもそうだが、身内にそういうことを知られるのは更に恥ずかしいことだということを、亜衣子はこの時心の底から痛感した。

「まあ、からかうのはまた後にして。とりあえず乾杯といきましょうや」

 からかうことはからかうのかと、内心で思わずツッコミを入れている亜衣子の目の前に、何種類かの飲み物のグラスが載った盆が回ってくる。

「あ、それノンアルコールな。アルコール分が欲しい人は言ってくれー」

 全員にグラスが行き渡ったところで、渡部と結花がグラスを掲げて声を上げる。

「えー、主役のふたりはもちろんのこと、そのまどろっこしいふたりの一番近くで頑張りまくってくれた笹野弟の祐真と」

「合唱部のアイ・マイ・ミートリオの一人藤原未唯菜ちゃんの頑張りも、皆さんねぎらってやってくださーいっ」

 そしてかかる乾杯の音頭。亜衣子も恥ずかしくて仕方がないが、隣に座る高坂の顔も真っ赤だ。まさか、こんなおおごとにされるとは思ってもいなかったのだろう。その後は、ほとんど無礼講だった。というよりは、主に亜衣子と高坂がいじられまくる場になってしまって、ふたりはもう顔が赤くない時がないのではないかと思えるほどの大騒ぎになってしまった…………。



    




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2012.12.21改訂版up

ついにいちゃいちゃ開始です。
非常に長うございました…。


背景素材「tricot」さま