〔7〕





 王城の、豪奢な大広間の中。拳を柱に打ちつけていたリオディウスは、背後から伸ばされたか細い腕にそれを制止され────そうはいっても、男性であるリオディウスがやろうと思えば、容易く振り払えるほどのか弱いそれであったが、リオディウスはそうはしなかった。この世の他の誰よりも愛しい彼のひとのそれであったから。

「リオ……もう、やめて…!」

 他の誰も呼びはしない彼の愛称を呼びかけながら────幼い頃ならともかく、いまとなってはもう誰も呼ばなくなって久しい、リオディウスの愛称だった────相手は言葉を紡ぐ。ゆるやかに波打つ長い金髪に、白くか細い肢体、萌える緑を思わせる緑の瞳と美しい面に悲しげな表情を浮かべて、彼女─────メレディアーナは告げた。

「メル……」

 こちらも特定の相手しか呼ばぬ彼女の愛称を唇に乗せて、そっと彼女を振り返る。

「貴方が悪いのではないわ……だから、自分だけを責めないで──────」

 大きな瞳からこぼれ落ちる、透明な雫。それを見た瞬間、いままで荒みきっていたリオディウスの心が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。メレディアーナは、いつもそうやって、リオディウスの心を癒してくれる。たとえどんなに心が荒れていても、どんなに苦しい思いに苛まれていても。いつだって、リオディウスの心を救い、また歩きだす勇気を与えてくれるのだ。

 少しずつ、腕から力が抜けていく。だらりと下がりそうなそれをメレディアーナの白い手が受け止め、傷に触れないように気をつけながらそのやわらかな頬に押しつけて……誰よりも何よりも、優しく慈しむようにその手に頬をすり寄せてくる。愛しいひとのそんな仕草に、まるで荒波のようだったリオディウスの心も、ゆっくりと海が凪いでいくように静まり返ってきて…代わりに溢れ出てくるのは、誰でもない彼女への愛しい想い。

「傷の…手当てをしなくては……」

 まだ目元に涙をためながら告げる彼女の反対側の頬に、そっともう片手をのばして……それからゆっくりと、その顔を寄せる。何も言わずに受け容れてくれる彼女が、誰よりも愛しい。

 まだ大丈夫だと、リオディウスは思う。この彼女がいてくれる限り、自分はまだ、自分を見失わずにいられる。双子の兄が隠すこともしようとしない、何もかもを壊したくなってしまいそうなほどの衝動を、抑え込むことができる。

 そしてふたりは何も言わぬまま、リオディウスの私室へと向かうのだった……。


「──────どうすれば…止められるのだろう」

 椅子に腰を下ろし、背もたれに身をあずけることもせずに、リオディウスはひとりごとのように呟く。その手には、たったいまメレディアーナが手当ての後に巻いてくれた包帯。痛みはまだあるが、そんなものはいまもみずからが望んだ訳でもない戦地に身を置く四人の心の痛みに比べたら、ささいなことだ。

 簡素な器具や薬が入っている箱を、所定の位置にしまっていたメレディアーナが振り返ってこちらを見るが、誰の答えを求めていた訳ではないリオディウスは、なおも続ける。

「陛下の関心を他にそらすことは、それほど難しいことではないかも知れない。けれど、それもそう長くもたないであろうことはわかっている。次の娯楽をすぐ考えねばならないし、陛下のことだ、また誰かの生命を危険にさらすようなことを考えつかないとも限らない。かといって、力ずくで止めようとすれば、不敬罪や謀反ととられ、身柄を拘束されて更に身動きがとれなくなる可能性もある」

 最後の考えは、明らかに得策ではない。リオディウスが動きを拘束されてしまったら、その間に更に犠牲者の数も増えるかも知れない。

 こんな時は、この世界に国が一つしかない現状が恨めしくなってくる。ただ一つしかないこの国の中でさえ、魑魅魍魎の化身かと言いたくなるような人間の思惑が蠢いているのだ────唯一の救いは、愛しいメレディアーナの両親がそんな人間ではなかったということか────これで他にも国があれば外交問題などで大変だったかも知れないが、それでも王も退屈することもなく、治世のほうに多少は関心を向けてくれただろう。そんな状況だった場合、もしかしたら自分とメレディアーナは、政略結婚などで引き裂かれる事態にもなったかも知れないが、それで王によって不幸になる国民が少しでもいなくなるのなら、みずからの痛みなど自分は甘んじて受けたかも知れないと、ありもしない事態にすらすがりつきたいほどリオディウスは追い込まれていた。

 気付いた時には、膝の上に肘をついて組んでいた両手に、温もりを感じた。目前の床に膝をついて、メレディアーナがそっと手を添えてくれていたのだ。

「どうか……独りだけで、悩まないで。貴方の苦しみなら、私は甘んじて共に受けるから…だから」

 外見だけでなく、内面まで美しい彼女の優しさが嬉しい。

 そして思うのは、あるふたりのこと。彼らが、誰にも何も言わず、互いを想い合っていることは気付いていた。滅多に同じ場所で見かけないふたりではあったが、それでも、互いに相手を見る瞳で、さりげなく交わす言葉で、やりとりで────ふたりが互いに惹かれあっていることは、見る者が見ればすぐわかることだった。何しろ同じようにメレディアーナに恋していた自分と、ふたりはまったく同じ瞳をしていたから。自分は幸運にも、とくに問題もなく婚約までたどりつくことができたが……放っておいても、いつかきっと互いの想いを伝え合って、自分たちのように手を取り合えたであろうあのふたりが、よりにもよって王の残酷な遊戯の犠牲に選ばれるとは!

「─────互いに想い合っていながら、殺し合わなければならないなんて……いったい、どれほどの苦しみなのだろうか…………」

 誰のこととは言わなかったけれど、メレディアーナにはちゃんと伝わっているようだった。答えを求めていないリオディウスには、何も言わず寄り添ってくれる彼女の気持ちが嬉しかった。いまここで何を言っても、単なる気休めにしかならないことは、リオディウス自身が一番わかっていたから。何を言っても、何をしても、王が考えを改めない限り、根本的な解決にならないことを、ふたりはよく知っていたから。

「……リオ…」

 メレディアーナのやわらかな腕が、リオディウスの首に回されて。強く、優しく、抱き締めてくれる。込み上げてくる愛しい想いが、胸の内を占めていた苦しい想いが、リオディウスの心のタガを外した。気付いた時には、彼女の細い身体を抱き上げ、続いている奥の間にある寝台へと連れ去っていた。彼女は、何も言わない。嫌がる素振りひとつ見せず、ただ、慈愛に満ちた瞳でまっすぐに彼を見つめるだけだった。

 既に、彼を止めるものは何もなかった。月光が差し込む中、ふたりの影がゆっくりと重なる。

 月だけが、ただ、すべてを見ていた────────。


 翌日の早朝。朝陽が差し込む中、極力物音を立てずに身支度を整えたリオディウスは、寝台の上でいまだ目を覚ます様子のない愛しい恋人の姿を見下ろして、ため息をつく。

 昨夜は、メレディアーナが何も言わないことをいいことに、己の激情を彼女にぶつけてしまった。彼女にはいつでも優しくありたいと思っているのに、彼女を思いやることも忘れて自分勝手に突っ走ることなど……決して許されることではない。彼女の優しさに甘え、我欲だけを押し付けるなんて、これでは兄と変わらないではないかと、リオディウスは自己嫌悪に陥ってしまう。

 愛しいメレディアーナ─────たとえ何があっても、君だけは絶対に護り抜くから……どうか、自分から離れていってしまわないで………………。

「─────済まない…………」

 ただ一言だけを言い置いて、起こさないように細心の注意を払い、その頬に口づける。彼女から離れ、顔を上げたリオディウスの表情には、既に弱さは一片も見えなかった。策など、何も思いついてはいなかったけれど。それでも、自分自身の何を犠牲にしてでも、兄を────王を止めると、固く誓っていた。そのためには、弱さなど決して見せてはいけないことを、彼は誰よりも知っていたから。だから、己の中の未練ともいえる彼女を一度も振り返ることもせず、独り、部屋を出ていった。

「…リオ─────」

 寝台の上で身じろぎひとつすらせぬままで、彼女が一筋の涙をこぼしたことも、まるで知らぬままで…………。




                     *      *




 ギィサリオンが目を覚ましたのは、朝にしてはだいぶ陽が高くなってきてからだった。少し離れたところで寝具にくるまって高いびきをかいているのは、ジィレイン。例の銅鑼が鳴り響けば、いくら彼のいびきがうるさくても気付かないはずはないから、今朝はやはり鳴らなかったのだろう。恐らくは尽力してくれたであろうリオディウスの苦労を思い、深く感謝の気持ちを捧げながら起き上がる。

 着替えを済ませ、川で顔を洗って戻ってくる途中、近くの大木のあたりから聞こえてくる少々騒がしい声に気付く。不思議に思いながらそちらに足を向けると、既に身支度を済ませたセレスティナとサラスティアが何やら言い合いをしているようだった。といっても、深刻なケンカという訳でもなく、サラスティアが何かしようとしているのを、セレスティナが懸命に止めているような様子であったが。

「…おはよう。朝から、どうした?」

「あっ ギィサリオンさま、おはようございますっ」

「はよ。あんたもさすがに今朝はゆっくりだったね。もう一人は? まだ寝てんの?」

「ジィンなら、いまだ夢の中らしいが」

 ジィレインの名を出したとたん、焦りの表情を浮かべていたセレスティナの顔が、わずかに明るさを取り戻した気がして、何となく面白くないものを感じる。

「ギィサリオンさま、急いでジィレインさまをここに連れてきてくださいませんか!? サラは、私が抑えていますからっ」

「あっ ティナ、てめっ」

「いったい…何ごとだ?」

 ギィサリオンの問いに、セレスティナはちらり…とみずからの背後に視線を落とす。そこにいたのは、短い草が生えた土の上で、じたばたと羽根────といっても羽毛もまだろくに生えてはいないが────を懸命に動かしている、鳥の雛。恐らくは、樹の上の巣から落ちたのだろう。

「野生の鳥は、雛に人の匂いがつくと育てなくなると聞いたことがあります。けれど、ジィレインさまのお力ならば……手を触れることなく、巣に戻すことが可能でしょう?」

 なるほど、そういうことか。確かにこの中の面子ならジィレインが一番適役といえるだろう。

「いいじゃん、野生ならこの時点で他の動物に食われたって何もおかしくないんだからさっ ヒナ肉は美味いんだから、食わせろっての!」

「ダメだと言っているでしょうっ!? ギィサリオンさま、お願いしますっ」

「わかった」

 込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、ギィサリオンは自分たちの天幕へと向かう。確かにサラスティアの言い分も正論ではあるのだが、ここはセレスティナの味方をしたいと思った。この現状においても優しさを失わない彼女の心を少しでも守りたいと思ったのだ。

いまだ高いびきをかいていて声をかけても目を覚まさないジィレインを、容赦なく寝具の端を掴んで持ち上げて転がすようにしてたたき起こして、状況を把握するより早く腕を掴んで引っ張っていく。変わらずにらみ合いを続ける二人の横で簡単に説明してやると、「面倒くせえなあ」と言わんばかりに指一本だけを動かして、雛をふわりと宙に浮かせて、下から見えた巣へと戻したのでホッとする。これで、セレスティナも安心してくれたことだろうと思い、そちらを見ると、セレスティナは嬉しそうに笑顔を浮かべていたが、サラスティアは「食い物の恨み」とばかりにジィレインを険しい表情で睨みつけていたので、思わずジィレインに同情してしまった。ようやく完全に目を覚ましたらしいジィレインは、何が何やら理解できない様子で、慌てたようにサラスティアに駆け寄っている。

「サラちゃん、いったいどうしたんだよ? 何でそんな怖い顔してんのさ?」

「うるせー、てめーしばらくあたしに近寄るなっ」

「えええ、何で〜っ!?

 ジィレインには悪いが、セレスティナに対する自分の点数稼ぎのためにも、不運に甘んじてもらおうと、薄情なことをギィサリオンは考えてしまった。セレスティナの心の中にリオディウスへの想いが存在しないとわかったとたんに、現金なものだと自分でも思わなくもないが、恋心ばかりは自分でもどうしようもできないのだから致し方ない。

「ギィサリオンさま……ありがとうございます」

「いや…礼なら、ジィンに言ってやってくれ。サラスティアどののご機嫌をそこねてしまったいまでは、なぐさめにもならないかも知れないが」

「ジィレインさまには、後でサラの機嫌が直る方法をお教えしておきます。何せ、生まれた頃からのつきあいですもの、あのコの性格は完全に把握していますので」

 くすくす笑いを交えた可愛らしい笑顔に、ギィサリオンも自然と笑みを浮かべてしまう。

「そうか。ますます俺とジィンの関係にそっくりなのだな。何だか親しみを感じてしまうな」

 今日のセレスティナの装いは、市街地にいる時ほどではないが、昨日までのいつでも戦えるような服装ではなく、女性らしさを兼ね備えたやわらかな印象をかもしだすそれだったので────更にいうと髪形も一部分だけをゆるやかに留めた、女性らしいものだった────何だかホッとする。やはり、彼女にはそういう装いのほうが似合う。惜しむらくは、髪を留めているそれが、簡素な組紐であるというところか。足元に咲いている小さな花を一輪、「済まぬ」と内心で詫びてから摘み取って、そっと彼女の髪に挿してやる。

「せっかく女性らしい装いをしているのだから、これくらいはしたほうがいいだろう。うむ、やはり女性には花が似合う」

 次の瞬間、まるで音でも発しそうなほど一瞬で、セレスティナの顔が一気に紅潮した。

「あ…ありがとうございますっ わ、私、遅くなりましたけれど朝食の支度をしてまいりますわね!」

 そう言って、きびすを返して走り去っていってしまったセレスティナの後ろ姿を、ギィサリオンはただ見つめているだけで、彼女の内心になど何も気付いていない。げに罪深きは、無邪気、もしくは天然というものであろうか。




         *       *      *




 一方、セレスティナのほうはというと。歓喜の叫びを上げたくなるのを、懸命にこらえながら、朝食の支度にとりかかっていた。

 ギィサリオンの言葉に、それ以上の意味もそれ以下の意味もないことは、重々承知している。彼のことだから、たとえばお年を召した老婦人や小さな幼女にさえも、きっと同じようなことを言い、するのだろうとちゃんと理解している。けれど、嬉しく思う気持ちは止められなくて、危うく顔がゆるみそうになるのを懸命に引き締める。万が一サラスティアあたりにそんなところを見られたら、どこまで追及されるかわからないからだ。

「あ、朝飯の準備してくれてんの? 悪いね、昨日も片付けやらせちったのに」

 そこにタイミングよくやってきたのは、サラスティア。セレスティナは、顔を引き締めておいてよかったと、しみじみ思う。

「別に、これくらいは苦じゃないから平気よ」

 見ると、サラスティアの機嫌はすっかり直っているように見える。もしかしたら、ジィレイン相手限定ではまだ悪いのかも知れないけれど、わざわざ寝た子を起こすこともないので、セレスティナは沈黙を守る。

「あれ? そんな花、さっきまでつけてたっけ?」

「え」

 まさか、サラスティアがそんなところに目ざとく気付くとは思っていなかったので、ふいをつかれたセレスティナの頬が、かあっと赤くなる。しまったと思った時には、もう遅かった。

「なになに、どうしたのさ〜? その反応は、自分でつけた訳じゃないってこと〜?」

 サラスティアは、すっかり楽しそうな顔になっている。

「べ、別に何でもないわよっ さ、サラもお腹すいたでしょ、早く支度しちゃいましょっ」

「あんたがあたしをよくわかってるように、あたしだってあんたの性格はお見通しなのよ〜? ごまかそうったって無駄よ、ティナちゃん、あたしらがいなくなった後、何があったのかな〜?」

「…っ!」

 そうだった。セレスティナがサラスティアを理解している分、逆にサラスティアもセレスティナをよく理解しているといっていい。

「な、何でもないったらっ」

 それぞれの家から持たされた保存食料を出しながら、無駄と思いつつもセレスティナは懸命に────といっても花が落ちないように気をつけながらだが────首を横に振る。

「あたしを煙にまこうったって無駄よ〜? ほらほら、お姉さんに言ったんさい」

「『お姉さん』って言ったって、たかだか数日でしょっ」

「えー? 煙がどうしたってー?」

 そこにやってきたのは、着替えも済ませ、顔も洗ってきたらしいジィレイン。

「んー? 火のないところに煙は立たないって話よ」

「へ?」

「だ、だから何でもないって……」

 それでも必死に話をそらそうとしていたセレスティナであったが、ジィレインの後からギィサリオンがやってくるのを見たとたん、もうどうしていいかわからなくなってしまった。

「賑やかだな。何の話だ?」

「んー、俺もよくわかんねーけど、ティナちゃんの煙がどうとかって…」

「煙?」

「何でもありません! 早く食事に致しましょうっ!!

 セレスティナの切羽詰まった、叫びにも似た声がその場に響き渡った…………。



    




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2012.3.28up

いっとき訪れた、ささやかな休息。
四人の命の洗濯が始まります。

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