〔2〕





 彼─────ギィサリオンと初めて言葉を交わしたのは、市街地での戦いの時。魔導師たちの結界をものともせず出現した魔物たちを、付近に居住していた四大部族の戦士たちの出られる者のほとんどで迎え撃ち、一般市民を守っていた時だった。

 逃げ遅れ、つまずいて危うく魔物の餌食になるところだった子どもをとっさにその胸に抱き締め、みずからの背に傷を負うことを覚悟したセレスティナは、魔物の爪によるものであろう風圧こそ感じたものの、いつまで経っても痛みが訪れないことに不審を感じて振り返ったところで、大地で創ったであろう剣を携え、倒れゆく魔物を険しい目で見つめる彼の横顔を……初めて目にしたのだ。

 「怪我はないか?」と訊かれ、反射的に肯定の返事をしたことを覚えている。セレスティナの返答を聞いて安心したようにうなずいた後、新たな魔物を倒しに走っていってしまった彼の後ろ姿を見送ってから、彼に礼すら伝えていないことに気付き、激しい自己嫌悪に陥ったのはその直後のこと。心配そうに声をかけてくる件の子どもとその母親に気付いて、慌てて笑顔で取り繕ったことも……。


 二度目に出逢ったのは、王宮で催された舞踏会の時。この世界では四大部族は貴族と同等の扱いを受けているため、両親や兄姉たちと共に着飾って出席したのだ。滅多にないことではあったが、ただの市民と何ら変わらない自分がそんな扱いを受けることに疑問を感じ、気乗りしなかったこともそう遠くない記憶だった。

 更に、美しい衣装を身にまとい、普段以上に艶やかに髪を結い上げられ化粧を施された自分の中身すらろくに知らずに、声をかけてきたりダンスの相手を申し入れてくる男性たちに辟易し、とっさに壁に沿ってバルコニーへと身を隠したのだ。誰もいないと思っていたそこでひとりたたずんでいたのが、やはり盛装に身を包んだ彼────ギィサリオンだった。普段は無造作にあまり構っていないような短い髪が、きっちり整えられていたから、一瞬人違いかと思ったけれど。

「…!」

 ひとりでいたいところを邪魔してしまったと思い、別の場所に移ろうときびすを返しかけたところで、自分の名を呼びながら探しているらしい先刻の男性の一人の声に気付き、思わず動きを止めたとたん、軽く腕を引かれて驚いてしまった。

「見つかりたくないのだろう? こちらへ」

 そう言われ、素直に従って彼の背に隠れる形になったところで、訪れる男性。まさに間一髪というところだった。

「おお、これは地の一族のギィサリオン殿。こちらに、水の一族のセレスティナ嬢は訪れなかったかな?」

「いえ。私はずっとここにおりましたが、女性どころか貴公以外のどなたもいらっしゃいませんでしたよ」

「そうであったか…お寛ぎのところ、これは失礼した」

 まるで動じることなくうまくあしらってくれた彼に、息をひそめていたセレスティナは軽く驚いてしまった。以前から見かけることだけは多かった彼は、寡黙で実直で…とても、こんな風に他者を軽くあしらうことなどできないように見えたのに……。

 セレスティナが何も言えないでいるうちに、彼は給仕と一言二言話し、グラスをふたつ受け取って、そのひとつをセレスティナに渡してくれた。初めて真正面から顔を合わせた彼は、まるで夜の闇を写し取ったような、けれど決して冷たさや異怖など感じさせない、それどころか安心感すら与えてくれるような黒髪と黒い瞳で……そのせいかも知れない。本来なら人見知りする質のセレスティナが、何の気負いもなく自然に微笑みを浮かべて礼を述べながらグラスを受け取れたのは。

 手すりに軽く手をかけ、もう片手でそっとグラスを傾ける。彼が告げた通り、アルコール分の入っていないらしい飲み物は甘く爽やかな飲み口で、酒にさして強いとはいえないセレスティナでも美味しく味わうことができた。隣で違う色の────恐らくは多少はアルコール分が入っているのだろうそれを口に運ぶ彼は、まっすぐに空の星を見つめている。

セレスティナに何も言おうとも訊ねようともしない彼であったが、沈黙が気詰まりになることもなく、かえってそれが心地よく感じるのは何故なのか…セレスティナにはわからなかったけれど。このまま、彼とふたりで並んでたたずんだまま、時間が止まってしまってもよいと思えるほどだった。名前と外見とある程度の能力以外、彼のことなど何も知らないというのに─────何故なのかは、やはりわからないのに…………。

 それでも、時を止めることなど誰にもできず、しばしの間ふたりで無言のまま過ごした後、セレスティナは自分の名を呼ぶ姉の声に気付いた。

「…姉さま……」

 思わず呟いた言葉に、ギィサリオンが反応してかすかに身じろぎをした。

「お迎えがおいでのようだな」

 彼がそう言うのが淋しくて……わずかに気落ちする己が心を抑えることができず、セレスティナは小さく「そうですね…」と答えていた。いつの間にか、彼と離れがたくなっていた自分自身に、セレスティナ自身が一番驚いていた。ろくに口をきいたこともなく、顔すらまともに合わせたのはいまが初めてだったというのに。

 空になったグラスを持ったまま、彼の背後を通ってホールへ戻ろうとしたその時、セレスティナは大事なことを告げるのを忘れていたことに気付き、振り返る。

「あっ あのっ」

 彼が、驚いたような表情でこちらを見た。

「先刻と…それといつかの戦いの時────助けてくださって、ありがとうございます」

 それは、ずっと言いたかったこと。いつかまた逢えたら絶対伝えようと思っていたのに、なかなか逢うことができず言えないままだったのだ。

「いや……そんな大したことは、していない」

 驚きに目をみはっている彼の前で、自分はきっと真っ赤な顔をしていると思ったけれど、紅潮していく頬は止められず……。

「ティナー?」

 もう一度自分を呼ぶ姉の声に気付き、丁寧にお辞儀をしてからその場を辞した。もっと、気の利いたセリフを告げられたらよかったけれど…それが、セレスティナの限界だった。

「あ、ティナ、そんなところにいたの。お父さまが、もうお帰りになるそうだから、私たちも…って、どうしたの? そんなに赤い顔をして」

「あ、さっき間違えてアルコールの入っている飲み物を飲んでしまったから…きっと、そのせいですわ、姉さま」

 空のグラスをそっとテーブルに置いて、セレスティナは空いた手で顔を煽いでみせる。とても、ほんとうのことなど話せやしない。

「それならいいけれど……貴女はお酒はあまり強くないのだから、気をつけなければダメよ?」

「はい。教訓として、深く心にとどめておきます」

 そしてその晩から、ギィサリオンを見かけるたびに目で追うことがやめられなくなったのだ…………。




                 *     *




 これは悪い夢だと、ギィサリオンは思っていた。創造神ティリアの見せる、悪い夢だと。

 まさに悪魔の所業としか思えない、王の命────その条件に合致し、たとえいなくなったとしても、一族の中でもっとも痛手を与えない末子の自分がすべて請け負って、それで済むと思っていた。一族の未来を担う兄たちをはじめ、それでなくてもその細い肩に戦士という重圧を背負っている姉たちにもそんな不運を押し付ける訳にもいかなかったから……だから、みずからその役をかってでたというのに。

 よもやまさか、敵対せざるを得ない他の一族の代表の中に、誰でもない彼女の姿を見い出そうとは!


「いやまさか、地の一族からはお前が出てくるとはなー」

 風の一族の代表として現れた従兄弟であるジィレインは、そう言ってからからと笑う。同じ年の、ほんの数日違いでこの世に生まれ出でた従兄弟には、簡単に予想できたことであろうに……。

「お前こそ」

「俺はまあ、風の一族の中でもはみ出し者だからな。いなくなったとしても、一番影響がないからよ」

 軽口をたたいてはいるが、恐らくはギィサリオンと同じような考えの元立候補したに違いない、日に焼けた肌と肩を越すほどに伸びた髪を無造作にまとめて、風の色を写し取ったような緑の瞳を持った従兄弟は、含みのない笑顔で笑う。四大部族の中でもずば抜けて実直で頑固と言われる、地の一族の中でも融通がきかないと評されているギィサリオンとはまるで正反対の気性ではあるが、何故か幼い頃からウマが合う従兄弟の彼は、友人の少ない────といっても、一度友と認めた者には深い親愛を注ぐギィサリオンの数少ない理解者の中でも、誰よりも近しい親友といっていい相手だった。

 そんな相手と戦わねばならないことはもちろん辛いことであったが、彼にならば、この命を奪われても悔いはないとギィサリオンは思っていたから。何の遺憾もなく、ほぼ同時にこの戦いの場────市街地から遠く離れた、すでに国の領地とはいえない荒野原に現れた彼と行動を共にしていたのだが……。

「それにしても。あんたが出てくるんじゃないかと思ってたけど、ほんとにその通りだったとはね」

 進行方向で話していたのは、短い髪と長い髪の対照的な女性の二人。こちら側を向いている短い黒髪の女性はともかく、こちらに背を向けて立っている女性のその亜麻色の髪には、見覚えがあった。まさか、という思いが心を満たしていく。そして、隣に立つジィレインの声に反応して振り返った女性の顔を見た瞬間、ギィサリオンはこれは夢だと思いたくなった。

「──────」

 他のどこよりも平和な場所で、他の誰よりも幸せそうに笑っていてほしかった相手の青い瞳が、驚きの色を隠すことなく自分の姿をまっすぐにとらえていたから──────。

「……ギィ…サリオン…さま…………?」

 どこか現実味を感じさせない声が、自分の名を呼んだと認識した瞬間、自分の唇も相手の名を紡いでいた……ほとんど無意識に。

「……セレスティナ…どの……?」

 何故、ここに? 頭ではちゃんとわかっているのに、心のどこかで認めたくなくて、もう少しでそんな質問を口にするところだった。

「あれ。何だ、ギィン、お前知り合いだったの?」

 自由を好み、束縛を嫌うジィレインは、滅多に舞踏会などの交流の場に姿を現さないから、彼女たちを知らなくても無理はないだろう。ギィサリオンとて、セレスティナはともかく、もう一人の女性は見覚えは多少あれどほとんど知らないのだから。

「あ、ああ……何度か、面識がある…水の一族の姫君だ」

「へえー。あ、俺は風の一族の長の末っ子、ジィレイン。これからやらなきゃならないことは脇に置いといて、こんなに美しいお嬢さん方とお近づきになれたのは光栄だな。どうぞよろしく♪」

 言うと同時にジィレインは歩を進め、より近くにいたセレスティナのか細く白い手を取って、その手の甲に口付ける。もともとたおやかで内向的な性格であろうセレスティナの頬が一瞬にして紅潮するのが、離れた場所からでも見てとれた。彼女の性格上、ジィレインに好意を持つ持たないは別にして、どんな相手にそうされたとしても羞恥のあまりそんな反応を見せるのだろうが、どこか面白くなく感じる自分も確かに心の中にいて、そんな自分に内心で嘲笑の感情を覚える。彼女を縛る権利など、自分にはありはしないのに……。

 そんな中、ジィレインはもう一人の女性の手を取ろうとするが、間髪入れずに手ひどくその手を振り払われて、驚きの視線を向けていた。

「そこらの女みたいな扱いはお断り。ついでに言うと、あんたみたいな軽い男はもっとお断りだよ」

 外見を裏切らない歯に衣着せぬ物言いに、ジィレインは気を悪くする訳でもなく軽快にヒュウ…と口笛を吹いた。恐らくは、ジィレインも初めて会うタイプの女性だったに違いない。

「あたしは火の一族の長の末娘サラスティア。このセレスティナの従姉妹で幼なじみ。ティナの知り合いだからって、容赦する気はないよ。もちろんティナ、あんたでもね」

 竹を割ったような性格とはこういう性格のことを言うのだろうか。彼女の気性をよく知っているらしいセレスティナが、硬い表情をしながらも、けれど納得しているような様子で迷いを見せることなくこくりとうなずいた。

「あ…改めて自己紹介致します。水の一族の長の末子、セレスティナと申します。女だからといって、手加減はなしでお願いします」

 言うと同時に深々と頭を下げたセレスティナの束ねた長い髪が、さらりと揺れてその細い肩や首をあらわにさせる。こんなにも…こんなにも華奢な身体に、いったいどれほどの重圧を背負っているのか。ギィサリオンには想像すらできなかった。

「…地の一族の長の末子、ギィサリオンと申す者だ。こちらのジィレインとは、従兄弟で幼なじみにあたる」

「へえ。あたしらと似たような関係か」

 そうサラスティアが答えた瞬間、何の前触れもなく宙空から声が降ってきたので、四人とも驚いて思わず顔を上げた。

『どうやら、全員揃ったようだな。いくら私でも、こんな最初から戦いを始めよとは言わぬ。今日はしばしの生活のすべを整え、明日以降に備えて休むがいい』

 それは、他の誰でもない王の声。声だけならば双子の弟であるリオディウスとも思えるが、リオディウスにはこんな、他者がこれから見せるであろう過酷な戦いへの期待に満ちた声など出せないことを、彼らはよく知っていたから────恐らくは、魔導師たちの手による大きな幕に映し出されている自分たちの姿を、特等席で見物しているのであろう。安易にそれを想像したギィサリオンは、内心でギリ…と唇を噛んだ────目に見える行動でそんな姿を見せたが最後、不敬罪として一族にどんな累が及ぶかわからないからだ。

 そうして、同じように宙空から降ってくる荷物の束────それぞれの一族が用意したであろう、彼らそれぞれの荷物だ────それを数歩退いて避けながら、各々見覚えのある包みを手に取った。入っていたのは、保存のきく食料数日分に、それぞれの身の回りの品に大きな天幕。一人で使うには大き過ぎる天幕に、いまここにいる面子を知った両親たちがいとこ同士で共用で使うようにと寄越したのであろうことをすぐに悟る。たとえ殺し合わなければならない立場同士であっても、互いに憎くてそうする訳でなく、戦いを行わない時にはいとこ同士水入らずで過ごせるようにとの配慮だろうと、四人の誰もが口にしなくても気付いていた。事実、王のこの残酷な命さえなければ、それぞれいとこ同士、これまでも、そしてこれからもいつまでも仲良く過ごしていたに違いないのだから…………。

「……とにかく。まずは天幕を張っちまおうぜ。で、その後結界な。日が暮れる前にそれだけはやっちまわないと、どうなるかわからないからな」

 ジィレインの提案に、異を唱える者などいるはずもなく────ただでさえここは人里から遠く離れた場所なのだ、いつ魔物に襲われてもおかしくない。せめて市街地に害が及ばないようにと、リオディウスが懸命に王を説き伏せて決めさせた場所だということは、既に四人全員が知っていることだった。彼は彼なりに、少しでも犠牲者を出さないようにと努めてくれたのだ、あの王を相手にそれだけでも十分だと、ギィサリオンは思った。

 男女に別れて、天幕を張り始める────高いところに行く必要がある時は、ジィレインが風の力によって舞い上がって手助けをしたが、セレスティナもサラスティアも基本的には自分たちの身の回りの品は自分で手際よく片付け始めたので、戦士と名乗るだけあってただのお嬢さまではないのだなと、ギィサリオンは変なところで感心をしてしまった。

 そうして、中へ入って各々の荷物を整理している時に、隣の天幕から聞こえてくるのは、たしなめるようなセレスティナの声。

「サラ! こんな置き方したら、汚れものとそうでないものの区別がつけにくいでしょう!?

「もーっ こっまかいなあっ ティナちゃんてば小姑みたーい」

「サラっ」

 まるで実の姉妹のようなやりとりに、ギィサリオンは知らず口元に笑みを浮かべていた。サラスティアはともかく、セレスティナにこんな一面があるなんて、これまで知りもしなかったことだ。

 ギィサリオンが知っているセレスティナは、いつでも良家の子女らしく優雅でたおやかで……それでいて、戦士としてやるべきことはきちんとこなし、弱いものに優しい女性で。そういえば、あの時もそうだったと思い出す。

 それは、セレスティナと初めて言葉を交わしたあの時────逃げ遅れた子どもをかばって、彼女がみずから魔物の爪を受ける覚悟でうずくまったことに気付いて、間一髪でギィサリオンがその魔物を葬ったあの時。怪我がないことを確認したところで、彼女がかばった子どもがほとんど泣き出しそうな顔で訊ねたのだ。

「ひ…姫さま、痛い? 痛い?」

 それに彼女は微笑みながら答えて。

「大丈夫よ。服が破れただけだから」

「お、お洋服、破れちゃったの? きれいなお洋服なのにっ」

「服なんて、繕えば済むことよ。そんなことよりあなたが無事でよかったわ。それと、『姫さま』はやめてくれる? 『ティナ』と呼んで。親しい人は皆そう呼ぶから」

「ひ…ティナさま、お友達になってくれるの…?」

「もちろん。こんな可愛らしいお友達なら大歓迎よ」

 その優しい微笑みに、ギィサリオンはこの時一瞬にして心奪われたのであった……。


 二度目に出逢ったのは、王宮の舞踏会の時。華やかな場が苦手なギィサリオンは、なるべく人が来ない場所を選んで時が経つのを静かに待っていたのだが、そこに慌てたようにやってきたのがセレスティナだったのだ。

初めて逢った時と違い、美しく着飾ってはいたが、ギィサリオンにとっては戦闘のためにであろう簡素な服装に身を包んでいたあの時のほうが、この時より数段美しく見えた。

澄んだ湖を思わせる青い瞳に驚きの色を浮かべて、無言のままに立ち去ろうとしていたのだが、自分を追ってきたらしい男の呼ぶ声に気付き、どうしていいのか戸惑っていた彼女の腕を無意識につかんでしまったことを覚えている。そうして、みずからの背に隠し、男を適当にあしらって追い払ったことも。その腕の細さ、やわらかさに驚きつつ、顔にはなるべく出さないようにして、ふたり並んで静かな時を過ごした。沈黙がまるで苦にならないことに驚いたのも、初めての経験だった。

 そうして、彼女が姉らしい相手に呼ばれて去ってしまうまで共に過ごし、去り際にこの時とその前の時のことと合わせて、顔を夜目にもわかるほど赤くして礼を述べてきた時には、あまりの愛らしさにギィサリオンまで赤面するところだった────それだけは彼女に気付かれまいと、必死で平静を保ったが。

 その時から、彼女はギィサリオンにとって目が離せない存在となったのだ………………。



    


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2012.2.21up

ほんとうにささやかだった、ふたりの出逢い…。
恋というものは、こんなささいなことから落ちるものかも知れません。

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