〔11〕





 重い足どりで洗濯を片付けて天幕に戻ってきたギィサリオンは、深いため息をつきながら腰を下ろした。

 定位置で腕を枕に寝転んでいるジィレインは、珍しく考え事をしているのかこちらを見ようともせず、無言のままで宙を見つめている。邪魔をするのは悪いかと思い、たたんだままの寝具に背をあずけ、ギィサリオンも天井を見上げた。

「…………」

 目を閉じると、浮かんでくるのはもうすっかり笑顔を見せなくなったセレスティナの顔。戦いの日々が続くにつれ、その青い瞳は徐々に哀しみの色を深くたたえるようになり、初めの頃は控えめではあったが見せてくれていた微笑みを思い出すと、いまではまるで別人のようだった。

 それを思うと、ギィサリオンの胸は身体の傷とは違う強い痛みを訴え始める。

「──────どうせ、どちらかの組が死ぬんなら……」

 唐突に聞こえてきた声にハッとして目を開けると、先刻までとまるで変わらない姿勢のままでジィレインが言葉を発していた。

「……ジィン…?」

 むくりと起き上がって、感情の読み取れない表情でジィレインは続ける。

「ギィン、お前今夜ティナちゃんをここに呼び出せよ。俺は席を外すからさ」

「え?」

 真剣に、ジィレインが何を言っているのかわからない。

「そしたら俺は隣の天幕に行くし。それぞれ風と地の結界を張れば、互いの声や音は聞こえねえだろ」

「何を…言っているんだ?」

「お前も大概鈍いな。どうせ俺らかあっちのどちらかが死ななきゃならねえんだったら、この際だから本懐を遂げろって言ってるんだよ!」

「な…!?

 そんな大声を出したら、隣の天幕に聞こえてしまうかも知れないと思い、ギィサリオンは背後を振り返った。セレスティナは先刻洗濯に向かったようだったが、サラスティアは中にいるかも知れないのに!

「隣なら、誰もいねえよ。さっき二人とも出ていったからな。それより、このまま死ぬのも相手に死なれるのも、俺は嫌だって言ってんだよ。お前はどうなんだよ?」

 ジィレインの言う「本懐」なる行動が、どういうことを示しているか、ギィサリオンにはすぐにわかった。豪放磊落を誇るこの従兄弟が、たかだか告白や口づけ程度で満足するようなウブなタイプではないことを、よく知っていたから。確かにジィレインは初めて逢った頃から、ずっとサラスティアに好意を示し続けていた。けれど、彼女のほうがそれに好意的に応えたことなど────内心はどうであれ、だ────ほとんどなかったはずだが、それでも強硬にことを進めようというのか!?

「…おい。まさかとは思うが……」

 ギィサリオンの言いたいことを正確に把握しているだろうに、ジィレインはまるで平然とした顔でけろりと答える。

「どうせ、俺たちか彼女たちかのどちらかは死ぬんだろ? だったら最後に好きなようにやったってバチは当たらないと思うぜ?」

「相手の気持ちも考えずにか!?

「んな悠長なことやってる時間があるのかよ!? 明日にはもう、四人のうちの誰かが死んでるかも知れないんだぜ!?

「…っ!」

 頭ではわかってはいたけれど、あえて気付かないふりをしていた危惧をまっすぐにぶつけられて、ギィサリオンは不覚にも動揺して言葉に詰まってしまった。

そうだ。今日までは、運よく誰も死なずに済んだだけだ。けれど、これからも誰も死なないという保証など、自分たちの誰にもないのだ。明日には、誰かが命を落としているかも知れない。それは自分かも知れないし、ジィレインやサラスティア、そして誰でもないセレスティナかも……知れないのだ!

「なら、せめて想いを遂げたいとは…お前は思わないのかよ」

 ジィレインの言葉に、一瞬心が揺れる。けれどすぐに、セレスティナの花のような笑顔が脳裏をよぎり、黒く染まりかけていた心を、まるで清水が洗い流すかのように浄化した。

「相手の気持ちを無視してまで、自分の身勝手を貫こうとは思わん!」

「あー、そうかよ、お前はご立派だよな! せいぜいやせ我慢したまま、くたばっちまえと言いたいところだが、お前にくたばられたら俺も困るんだよな。てな訳で、俺は俺で勝手にするから、お前も勝手にしろよ。ただし、俺の邪魔だけはするんじゃねえぞ」

 そう言って、立ち上がるジィレインにハッとする。もしや、いますぐサラスティアをどこかに拉致なりして、よからぬ行いに及ぼうというのか!? それだけはさせない、とギィサリオンは思う。

男として、また従兄弟として、それは許せないという思いもあったが、彼女がそんなことになったら誰が一番悲しむかということを、ギィサリオンは知っていたから。彼女だけでなく、誰でもない彼の女性が哀しむことには絶対させないと固く誓った。

「何だよ。俺の邪魔はするなって言ったろ?」

 同じように立ち上がって、みずからの進行方向に立ちふさがるギィサリオンを、ジィレインが不機嫌そうに睨みつける。

「『勝手にしろ』とも言ったよな。ならば、俺は俺の勝手でお前を止める。文句など言わせない」

「好きな女に何ひとつ告げらんねえ根性なしが、俺とやるってのかよ!?

「!」

 その言葉にカッとなって、思わずジィレインの胸ぐらに掴みかかっていた。

「邪魔すんなってのがわからねえのかよ!?

 即座に頬に当たるジィレインの拳。

「そっちこそ、どれほど男らしくない行いかということを、わかっているのか!?

 こちらも躊躇うことなく拳を見舞う。ジィレインの身体が倒れ込むのを見下ろしながら、全身に力を漲らせる────能力のほうではなく、己の肉体が元から持つそれだ。ジィレインの性格からして、ここまでされて、このままおとなしく引き下がる訳がないことを、誰よりもよく知っていたから。反撃に備えて、力を蓄える。

「明日には死ぬかも知れねえって時に、んな綺麗事言ってられっかよ!」

 ジィレインの拳にも容赦がない。彼は本気だと、ギィサリオンは思った。こちらも本気でかからねばやられるとも。両手足につけられた枷の重量は、既に気にならなくなっていた。ジィレインとて、条件は同じだ。そんなものを気にしていて、止められる相手ではないことも重々承知の上である。

 しばらくは天幕の中でもみ合っていたのだが、やはり既に大人の身体の男二人でやり合うには狭かったようで、ジィレインの突進に圧されて天幕の外へと転がり出てしまった。小さな悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、そちらを見ている余裕などなかった。

「ちょ…っ 何やってんのさ、あんたたちっ!!

 サラスティアの、珍しく焦ったような声に、反射的に答えを返していた。

「止めるなっ!」

 息をのむ気配がしたと思ったとたん、みずからが組み敷いていたジィレインの蹴りが腹部に命中して、思わずうめき声を上げてしまう。

「ぐっ!」

「きゃ…!!

 怯えを多分に含んだ、悲鳴のような声にとっさに顔を上げると、両手で口元をおおってかすかに震えているセレスティナの姿が目に入った。その大きな瞳は、声と同じく怯えや驚きの色を宿していて、いまにも涙があふれ出すのではないかと思えるような表情だった。

 違う。そんな顔を、させたいんじゃないのに。何か、安心させるような言葉をかけてやりたいと思ったが、まだみずからの身体の下にいたジィレインが何かを言おうとしていることに気付いて、内心で地の精霊に命を下す。ジィレインがよけいなことを彼女たちの前で口走らないうちに、一刻も早くこの場から消えることを。一瞬の違和感ののち、周囲に見える景色が変わる。その見覚えから、ここがかつて四人で散策をした場所だということはすぐにわかった。とにかく彼女たちから離れた場所へと、漠然と命じただけだったのでそこまで考えていなかった。

 それに気付くと同時に、下から今度は胸元に蹴りが入り、ギィサリオンの身体が後方に倒れ込む。

「いつまでも乗っかってんじゃねえよ。女の子ならともかく、ヤローにいつまでも乗られてたくねえっての!」

 本音を言えば、二十一歳の若い男としてはまったくもって同意としか言いようのない言葉をジィレインが口にしたので、内心でつい苦笑いをしてしまう。何のかんのと建前を並べても、結局心の奥底ではジィレインと同じようなことを考えているではないか。彼女にはいつまでもどこまでも清廉な存在でいてほしいのに──────気を抜くと、低俗な考えにとらわれてしまう自分自身に、呆れを通り越して乾いた笑いしか出てこない。

「……確かに。お前の言う通り、俺だって下卑たことを考えることもあるさ。それこそ、聖人君子でもないからな」

 セレスティナには決して見せられないような笑みを口元に刷いて言うと、ジィレインが面白いものを見たとでも言いたげに、ひゅうと口笛を吹いた。

「へっ やっと本音を吐きやがったか。お前も一皮剥きゃ、俺らと大して変わらないってことだな」

「でも。だからこそ、守りたいものもあるんだよ」

 まっすぐにジィレインを見つめながら告げると、ジィレインは再び忌々しげな表情を浮かべて、吐き捨てるように言った。

「けっ どこまでもクソ真面目で面白味のねえ奴」

「軽過ぎて、本命に本気にされてない奴よりはマシだと思うがな」

「言ってくれんじゃねえか……」

 明らかに気分を害したようにジィレインは言うが、その顔はどこか楽しそうだ。思えば、思春期を過ぎて以降はこうしてジィレインと本気でぶつかり合ったことがなかった気がする。だからこそ、内容はともかく本音で語り合えることが何となく嬉しい気がするのは、ギィサリオンだけではなかったらしい。

「先に言っとくが、能力は使わないでも手加減はしねえからな。年も体格も、条件さえも同じだからな」

 条件、とは、王に科せられた例の枷のことであろう。

「…ああ。臨むところだ」

 もう何年ぶりかも覚えていないほど久しぶりの、従兄弟であり親友である相手との喧嘩に、気分が高揚していた。命がかかっていないという気楽さもあるのかも知れない。けれど、ここに来て初めて、心の底から本音で笑えた気がする。

「いっくぜえええっ!!

 そうして、互いに向かって、双方の脚が動き出した…………。




                      *     *




 その後、体力が続く限り殴り合い、蹴り合って、天幕のところへ戻ったのは、すっかり周囲も暗くなった頃だった。

 夕食の支度だけして、食べるのを待っていてくれたらしいセレスティナとサラスティアに謝罪すると、サラスティアにさんざん喧嘩の理由を問われたが、とても真相など話せるはずもなく、適当な言葉でその場はごまかした。それでもサラスティアはまだ納得ができないらしく、食事が終わってから詫びのつもりで自分と共に片付けをかって出たジィレインの後について回り、彼女にしては根気強く聞きだそうとしていたが────彼女の性格からいって、白黒つかないことは許せないのであろう────結局ジィレインも口を割らなかったので、いい加減にキレたらしいサラスティアに捨て台詞を吐かれてしまったが。

「何よっ ジィレインのくせに生意気よっ!」

「…サラちゃん、俺のこと初めて名前で呼んでくれたね♪」

「はあっ!? 何浮かれてんのよ、むかつくっ」

 ジィレインが一瞬見せた、泣き笑いのような複雑な表情────そばにいたサラスティアですら気付かなかったそれに、ギィサリオンだけが気がついた。明日には、もうできなくなるかも知れない、日常でなら何てことはないやりとり。それすらも、ジィレインにとっては他の何にも代えがたいくらい、貴重なものなのかも知れない。

「あ、の……」

 食器を片付けながら振り返ると、手のひら大の大きさにたたまれた布を持ったセレスティナの姿が目に入った。

「これ…冷えた地下水で濡らしてきましたから……どうぞ、使ってください…………」

 それだけ言って、差し出される布。まだ腫れのひいていないギィサリオンの顔を慮って、わざわざ用意してくれたのだろうか?

「…ありがとう。遠慮なく、使わせてもらう」

 微笑みながら受け取ると、セレスティナは顔を赤くして、「いえ…」とだけささやいて、そのまま足早に去っていってしまった。どちらかというと内向的な彼女の性格からして、一生懸命勇気を振り絞ってくれたのかと思うと、腫れとは違う意味で顔が熱くなる。火照った頬に、セレスティナが渡してくれたそれは、とても気持ち良くて…。

 やはり、護りたいと思う。誰からも何からも。たとえ、自分の命と引き換えにしたとしても。けれどそれは、別の意味で大切な存在であるジィレインをも危機に晒すことと同義でもあって……。もう、どうしていいのかギィサリオンにもわからなくて。

 勝つつもりだったのに引き分けで終わってしまったのが悔しかったようで、自分とろくに会話をしないままふて寝のように先に眠ってしまったらしいジィレインの背を見届けてから────多少の気まずさはあったが、いつも以上に汗をかいてしまって気持ち悪かったので、時間短縮も兼ねて湯は共に浴びたが────ギィサリオンは天幕を出る。さすがにセレスティナもいるこの状態でなら、サラスティアに不埒な真似をはたらくようなことはしないだろう。

 夜風に心地よさを感じながら、あてどなく歩く。単にすぐに眠る気になれなかっただけだから、目的などない。答えの見つからない難問を解くために、頭を冷やしたかった、ともいえる。だからとくに目的地をさだめずに、足の向くまま歩いていただけだったのだが。

「──────」

 少し離れたところから、声────歌声のようなそれが聞こえた気がした。こんな夜中に気のせいかと思いつつも、他にあてもないことだしと、そちらに足を向ける。

 そこにいたのは、見覚えのある亜麻色の髪の女性。近くにまできてから初めて気付いたことだが、彼女が風に消え入りそうなほどささやかな声で歌っていたのは、古い、祖父といってもいいぐらいの歳の、一族の重鎮の者に教わった平和を願う歌。穏やかな旋律の、子守唄にされることも多い、どこまでも優しい響きを宿す歌──────。

「…………」

 ふいに声が途切れたのは、歌うのをやめたのではなく、溢れ出る涙が喉を詰まらせているらしいことは、その小刻みに震える肩を見ればわかる。それを黙って見ていることに耐えられなくて、思わず一歩、もう一歩と近付いていったその時、足元で小さな音が鳴った。落ちていた木切れを踏んでしまったことに気付くと同時に、自分の存在に気付いたセレスティナが振り返った。

「!」

 その青い瞳に大粒の涙をためているのを目にしたら、もう、自分を止められなくなった。そのまま逃げ去ろうとする彼女の手首を掴み、みずからの胸の中に引き込んでいた。

「は、はな…!」

 恐らくは「放して」と続けようとしたのだろうセレスティナの、細い肩と背を両腕でしっかりと包み込んで、普段の穏やかさとは雲泥の差で強くギィサリオンの胸を叩く彼女の抵抗をも抑え込んで、誰よりも愛しい存在をその胸の中にしっかりと抱き締めた。やがて、純粋に腕力ではかなわないと察したのか、セレスティナがその抵抗をやめて……その身をそっと、遠慮がちに委ねてくる。

 話したいことは、たくさんあった。訊きたいことも……けれど、いまはもうそんなことはどうでもよくて。初めてこの胸の中に受け容れた、誰よりも大切で愛しい存在を、何も言わずにただ、抱き締め続けていた………………。




    




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2012.5.2up

誰かを想う気持ちは皆真剣なのに…。
伝えられない心はどこへ行くのか。

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