〔10〕





 バン!と握り締めた手をテーブルの上に打ちつけて、そのままテーブルの上に載っていた花瓶を苛立ちのままに片手で薙ぎ払う。少し離れたところで陶器の割れる音がするが、そんなことはもはやどうでもいいことで。再び立ち上がった所で、王城に出入りしている業者が置いていった調度品が目に入るが、いまやそれさえも彼────リオディウスの苛立ちを増幅させる元としかならず、壁に掛けてあったほとんど宝飾品の刀を鞘から抜いて、思いきり突き立てていた。

「陛下とお姿がそっくりな御方には、やはり陛下と同じものを捧げさせていただきたく…」などと、明らかに営業用の笑顔とおべんちゃらを口にしながら押しつけてきた業者の顔を思い出すだけで、吐き気がしてくる。子どもや年頃の娘たちでもあるまいに、誰がそんなものを喜ぶというのか。古狸らしく弁の立つ業者どもを、アナディノスは本気で気を許さぬまでもそれなりに重用しているようだが、リオディウスからしてみれば嫌悪の対象でしかない彼らを目にするだけでも気が滅入る。みずからの利益や保身しか頭にない連中は、リオディウスがもっとも嫌悪する類いの連中の一種だ。以前アナディノスに進言したことがあるが、彼は笑ってとりあってはくれなかった。こちらが気を許さずにいれば、とくに害もないのだから放っておけと言って。

ほんとうに、姿以外は自分たちはまるで似ていない。壁にかかった大きな鏡に映る自分の姿すら見ていたくなくて、とっさに掴んだ手鏡を投げつける。先刻よりは派手な音と、先刻とは比較にならない量の破片が、窓から差し込む月明かりにきらめきながら辺りに飛び散る。その音を聞きつけたのか、鍵をかけておいた出入り口のドアを、外から叩く音がする。

「リオディウスさま、いまの音はいったい何事ですか!?

 聞き慣れた、世話係の中年女性の声。

「何でもない。だから、誰もこの部屋に入るな!」

「ですが…!」

 その声を遮るように、新たな女性の声が飛び込んできたのは、次の瞬間のこと。

「リオ! リオ、どうしたの!? お願い、ここを開けて!」

 誰よりも愛しいひとの声。

「…メル……もう二度と…君を傷つけたくないんだ。だから、ひとりにしておいてくれ」

「リオ…!」

 ドアの外から聞こえてくるのは、愛するひとが自分を呼ぶ、悲痛な声。彼女を悲しませたくないのはほんとうなのに。自分がここにひとりで立て籠ることで、また傷つけてしまっている。けれど、中に入れればまた自分は耐えきれずに、彼女に怒りや哀しみや、自分でもさまざまな感情がないまぜになってしまって何だかわからなくなってしまっているものをぶつけてしまうだろう。それだけは、絶対に嫌だったから。

「頼むから……いまは、ひとりにしてくれ────────」

 何の虚飾もない本心のままの言葉を口にすると、メレディアーナは恐らくは納得はしていないだろうけれど、自分の意思を尊重することにしてくれたらしい。しばしの沈黙の後、再び言葉を紡ぐ。

「……わかったわ。でも、私たちはすぐそばの部屋にいるから。何かあったら、いつでも呼んでちょうだい」

 やがて、遠ざかっていく人の気配。そのことにホッとしつつも、月を見上げながらカーテンを力の限り引き裂いた。繊維の流れなど無視した力に悲鳴のような音が部屋中に響き、手を離したとたんに途中まで裂かれたそれが力なくぶら下がる。元は美しい色のそれが無残な姿になっているのにも目もくれず、部屋の中央に戻って、置いてあった椅子を振り上げて壁に投げつける。堅い材木で出来ていたものだが、壁の強度にはかなわなかったらしく、あっけなく崩れて床に落ちた。

 わかっている。こうして、何かに当たっていても、何の解決にもならないことは。けれど、自分自身ですらもてあますほどのこの激情を、リオディウスは他になだめるすべを知らなかった。自分を含めた、誰かにぶつけることは絶対に嫌だったし────ほんとうは一番ぶつけたい相手はアナディノスだったが、立場上の問題でそれもできず、ならばまったく同じ姿の自分にと思っても、それをすればメレディアーナが哀しむ────能力を使えばこの王城全体がただでは済まないだろうし、こうして己の手で発散させるしかなかった。双子なだけあって、リオディウスのそれはアナディノスのそれとほとんど変わらないほど強いものであったから。

 そう、アナディノスは強い。恐らくは、この世界で一番。一部の人々は、普段魔物討伐に乗り出している四大部族の者が一番強いと思っているようだが、実は「天帝」とも呼ばれている彼が一番強いことを、リオディウスは誰よりもよく知っている。

 かつて────アナディノスが即位して二年ほど経った頃だったか────彼のあまりの暴君ぶりに怒りを覚えた四大部族のそれぞれの分家筋の人間が、結託して彼に反旗を翻したことがあった。彼らの計画は緻密かつ周到で、うまく王城の警護の隙を突いた襲撃に、誰もがアナディノスの命運は尽きたと思った。なのに。アナディノスはまるで慌てることも狼狽えることすらせずに、片腕を一閃振りかざしたのだ。ただそれだけで、襲撃者たちの半数近くの者の身体が、一瞬にして肉塊と化したことを……リオディウスは覚えている。誰もが、我が目を疑ったに違いない。それまですさまじい怒号や叫び声に満ちていた広間が、水を打ったように静まり返ったのだから。沈黙を破ったのは、不幸にもそこに居合わせた侍女のひとりの悲鳴だった。その絶叫にも近いそれに、彼らがようやく我に返った時はもう遅かった。改めて襲撃しようとした彼らは、先の者たち同様、恐らく自分でも気付かぬうちに黄泉路へと旅立っていたのだから。

 その事件に関わっていた者は、五十人は下らないと聞く。そのほとんどの者が、その時のアナディノスの反撃によって命を落とし、残りの者は後に処刑された。救いは、謀反に関わっていた者はほぼ全員が分家筋の独身の者たちで、それに累する者としてか弱い女子どもが罰せられたりすることはなかったことであろう────それを恐れてあえて妻帯者は仲間に引き入れなかったと聞いて、亡くなった者には申し訳ないと思いつつも、リオディウスは内心で小さな安堵の息をもらしたものであった。だが、だからといって本家の者たちが無罪放免で済む訳もなく、ほんとうに何も知らなかったらしい四大部族の長たちが自害して詫びるというのを止めようともしなかったアナディノスをとりなすことに、その後は尽力せざるを得なかったが。

 表立って戦うことはほとんどないが、アナディノスは強い。恐らく、いや確実に、この世界の誰よりも。己が護りたいもの、更に他者に対する労わりの感情すら持ち合わせていない分、たとえ同等の力を持っているリオディウスでも、彼にはきっとかなわない。自分以外、誰も何も大切なものを持たず、もしかしたら己の欲望や愉悦のためにだけ動いているのかも知れないと、思わせるような彼にだけは。

 だから、そんな彼が唐突に持ちかけた提案を、止めることはできなかった……もちろん何もしていなかった訳でもなく、どれほど言葉を尽くしても、アナディノスの心を変えることはできなかったのだ。アナディノスは気付いていないようだったが────推測ではないが、ほぼ確実に当たっていると思われる、他の誰も本気で愛したことのないであろう彼には、きっと理解できない感情だろう────愛し合う者同士をそれぞれ違う組に二分し、そのどちらかの組が死に絶えるまで戦いを続けろ、などという酷い提案を、一度でも他者を愛したことのある者にならできるはずがない。

 男女という性差のせいで生じる有利、不利を訴えた者もいたが、それすらもあまりにも大雑把としかいいようのない強引な策で無理やり解決に持ち込み、アナディノスは命を下した─────恐らくは、この世でもっとも酷い命を。いっそ、彼らの内心を暴露して情に訴えてみようかとも思ったが、前述の通り他者の気持ちに無頓着な彼のことだ、より面白がって、止めるどころか己が楽しみを更に彩る味付け程度にしかしなさそうだとすぐに気付き、リオディウスは口を噤んだ。ただでさえ苦しんでいる彼らに、更なる苦しみを与えることなどできなかったから。

 愛し合っていながら、共に逝くことも許されず戦わなくてはならない絶望感は、いったいどれほどの苦しみを彼らの心にもたらしているのか。リオディウスには想像しかできないが、恐らくはそれをはるかに上回るものであろうことは、安易に推測できる。


 そうして、より苦悶のそれと化した戦いの幕が、今日も新たに開かれるのだ───────。




                    *     *




 この数日で慣れてしまった、決して慣れたくはなかった刃が肌を裂く感触に、セレスティナは思わず唇を噛みしめる。そうでもしなければ、叫びが唇から迸ってしまいそうだったから。その直後、みずからの肌に突き刺さる痛みに、思わず身を震わせる。みずからの手にした本来なら色を持たぬはずの刃は、自分のものではない血の色に染まっていて、相手の持つ本来ならば温かな色をたたえているはずの刃は、己が血によって冷たく見える色合いをたたえている。

 ほとんど無意識にはあと息をつくと、目前の相手もほぼ同時に息をついたことに気付く。そうだ。疲れているのは相手も同じなのだ。男女の体力差があるとはいえ、相手の両手足には王に科せられたまさに枷がかけられているのだから。どれほどの重さのものかわからないが、彼の疲弊具合からして、相当な重さであることが想像できる。現に、自分の従姉妹と戦っている彼の従兄弟も、風の精霊の力を借りて宙空に浮いているものの、これまでと違って目に見えて動きが鈍くなっていたから。

「…………」

 傷つけたくなどないのに。幾度、彼の身を傷つけたことだろう。殺したくなどないのに。幾度、彼を殺すための技を繰り出したことだろう。

気を抜けば、いまにも涙があふれそうになるのを決死の覚悟でおしとどめて、滲む視界の中で相手を見据えた。彼の表情は、よく見えない。けれど、それでいいと思う。彼がどんな表情をしていたとしても、まっすぐにはっきりとその顔を見てしまったら、自分はもう戦うことすらできなくなってしまうから。いくらみずからの意思で戦っている訳ではないといっても、もはや彼の眼すらまともに見られなくなってしまっている。臆病者、と心のどこかから声が聞こえてくるが、もはやどうしようもない。

先に逝くこともできない。共に逝くことさえ許されない。もはや出口の見えない袋小路の中に入り込んでしまったセレスティナには、もう他にどうすることもできない。このまま、誰かが命を落とすのを待つしかないのか。どちらかの組が死に絶えるまで、待つしかないのか……深い絶望感が、心を満たす。

「あっ!」

 考えに没頭しかけていたせいで、新たな傷が肌に増える。水の精霊たちのおかげで大きな傷跡こそ残ってはいないが、光の加減でうっすらと見える傷が身体中に残っていて、嫁ぐ時には気になるかも知れないと思ったとたん、心のどこかから自分を嘲笑う声が聞こえてくる。

 ここで死ぬかも知れないというのに、誰の元に嫁ぐというのか。嫁ぎたいと思える相手は唯ひとり、自分たちでなければここで命を落とすであろう相手だというのに、いったいどうやって嫁げばいいというのか。それ以前に、相手の気持ちすら確認してはいないのに…………。

 「好き」という気持ちを刃に変えて、またしても攻撃を繰り出す。この世で一番、哀しい告白。決して受け容れてはもらえぬ想い──────。


 そうしているうちに、宙空から鳴り響く銅鑼の音。幾度、この音色を虚しく渇ききった心で聞いたことだろう。その後に続く王の言葉など、もはや誰もろくに聞いていないに違いない。自分たちの中の誰かが死ぬことを期待している言葉を、聞きたいと思う人間がいたら見てみたいものだと、かつてのセレスティナだったら思わなかったかも知れない荒んだ考えにとらわれ始めていた。

 もう戻れないといえば、戦いの時間でない自由時間についてもそうだ。食事や風呂の準備が整っても、双方の組とも必要事項以外を口にしようとしない。仮に洗濯をする場所で出くわしたとしても、軽い挨拶の言葉を交わすだけで雑談なども交わしもしない。かつては長年つきあってきた友人のように、四人で楽しく歓談しながら食事をすることもあったというのに…。ほんの数日前のことだというのに、もうずいぶん遠い昔のことに思えて、涙がこぼれそうになってくる。どうしてこんなことになったのだろう。こんなことさえなければ、いつかは彼らと友人としてでも親しくなれたかも知れないのに。たとえ、彼が他の女性を選ぶ日が来たとしても、こんな、互いの命を狙うような関係に較べたら、どれほどマシだったかわかりはしない。

 背後で、木切れを踏む音に気付いてハッとする。つい先刻、自分と入れ代わりでここを去っていったギィサリオンが戻ってきたのかと思い一瞬身構えるが、耳に届いたその声は同じように聞き慣れたそれではあるが、思っていたひとのそれとはまったく違うもので……。

「─────ティナ」

 この、同い年の従姉妹に想いを語った覚えはない。けれど彼女は、セレスティナの言動の端々から敏感に変化を感じ取り、少しの齟齬もなくその内心の想いを理解してくれているようだった。思わず振り返ったその前で、サラスティアが両手を広げて待っていてくれるのを見た瞬間、セレスティナはもう何も考えられなくなって、その胸に飛び込んでいた。

「サラ……わたし…わたし…っ!」

「…うん。何も言わなくて、いいから…………」

 いつも、そうだ。いつも、何も言わなくてもこの従姉妹はセレスティナの気持ちを皆わかってくれる。言葉の代わりにあふれてくる涙を止めることもできず、サラスティアの両腕に抱き締められながら、セレスティナはいつまでもその温もりに包まれていた…………。


 予想もしていなかった出来事が起こったのは、それからしばし経って、セレスティナたちが洗濯を終わらせて天幕に戻ってきた時だった。

 派手な音がしたと思った次の瞬間、隣の天幕の入り口付近の布が大きく揺れたのだ。その直後、転がり出てくるふたつの物体。それがギィサリオンとジィレインの身体だということに気付くのに、時間がかかった。理解するのが遅れたというより、あんなに仲のよい二人がそんなこと────全身を使った取っ組み合いの喧嘩のことだ。それが勢い余って、天幕から転がり出てきたようだった────をするなんて、信じられない気持ちのほうが大きかったからだ。サラスティアも、それは同様のようだった。

「ちょ…っ 何やってんのさ、あんたたちっ!!

 それに返るのは、ギィサリオンの怒号。

「止めるなっ!」

 あまりの剣幕に、サラスティアさえ気圧されてしまったらしく、それ以上何も言えなくなってしまったようだ。その間にも、ギィサリオンの下にいたジィレインの蹴りがギィサリオンの腹部に入り、ギィサリオンの身体を勢いよく蹴り上げた。

「ぐっ!」

「きゃ…!!

 思わず悲鳴を上げかけたセレスティナを、ギィサリオンが視線だけを向けてちらりと見たので、思わずどきりとしてしまう。何か言いかけたように口をわずかに開いたギィサリオンだったが、結局何も言わないままで唇を引き結んで、そのままジィレインと共にその場から姿を消した。前触れも軌跡も残さず、一瞬にして消え失せたのだ。地の精霊の力を借りたのだと気付くまで、不覚にも時間がかかってしまった。

「いったい……何だっていうのさ」

 まだ茫然としているらしいサラスティアの声だけが、その場に響き渡った………………。



    



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2012.4.25up

届かない想い、追い詰められていく心。
最初に限界を迎えるのは、いったい誰なのか。

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