〔1〕





 水が、騒いでいるとセレスティナは思った。

 普段はまるで凪いだ海のように穏やかに、月が人々を見守るように、彼女を含む皆へ深い慈愛を注いでいるというのに。

「何が…起きたというの……?」

 寝台の上で思わず発していた言葉に、けれど応える者はいない。常ならば、空気を震わせることによって、声なき声を彼女を含む一族の者に伝えてくれるはずの水の精霊たちが……こんなことは、セレスティナの19年の生涯において、これまで決してなかったことだ。精霊たちとの意思の疎通がはかれなくなったという訳ではない。何故なら、セレスティナの先刻の問いに答えることに困惑している思いが伝わってくるから─────生まれ落ちたその瞬間から、精霊たちはずっと彼女の成長を見守り、護り続けてくれた存在だ、彼らを疑うことなどセレスティナには思いつきもしないことであったから。

 それでも彼らがセレスティナの疑問に答えないということは、残る可能性は彼女の父であり一族の長である、かの人物が精霊たちにそれを命じているということだ。本来は上下関係などあるはずのないセレスティナの一族と精霊たちの間柄で、唯一の例外は一族を束ねるセレスティナの父の存在。精霊たちが膝を折り、すべての命に従うと誓った一族の長。それは父一人に限ったことではなく、代々一族の長に許された特権────あくまでも、精霊たちが認めた存在であることが第一条件であるが────長が禁じたそれを、精霊たちが破るはずもなく、恐らくはセレスティナの兄姉たちも異変には気付いているはずだ。言うまでもなく、国の東西南北に散っている、一族の分家の者たちも同様だろう。父は昼間、王の召集の命を受けて城へと赴いていたはずだが、何かあったのだろうか。

 ほんのついさっきまで眠っていたというのに、眠気は既に遠くへと去ってしまっている。薄手の夜着をまとったまま、セレスティナは寝台から起き上がり、そっと窓を開けて表へ視線を向ける。動くものは、やはりない。人も、物も。けれど、精霊たちだけが変わらず騒いでいる。かすかにそよぐ風に長い亜麻色の髪をもてあそばれるのも構わず、その整った容貌に陰りを宿し、セレスティナはそっと空の三日月を見上げた…………。


 父から緊急の召集をかけられたのは、その翌朝のこと。身支度を整え、朝食を済ませた後のことだった。

 父と母が私室として使っている部屋に集められたのは、全部で十人ほど────二人の兄と、二人の姉、そして末のセレスティナの五人の他に、父の補佐をすべく仕える一族の重鎮たち。皆、セレスティナが生まれる前から父母に仕えていた、信頼できる者たちだった。五人それぞれ微妙に違う五対の青い瞳が、これ以上ないというほどに苦渋に満ちた表情を浮かべる父を無言のままに見つめる。そしてそこでセレスティナは、信じられない報せを受けることとなる。


「──────『殺し合いをせよ』と。王は仰せられた」

「!」

 父が重い口を開いて告げたその言葉に、セレスティナを含む五人の兄妹は思わず息をのんだ。「殺し合い」ということは、普段の戦いのことを指すものではあり得ないことを、その言い方と父の様子から感じ取っていたから────普段の戦いは、襲い来る人ならぬモノからこの国の民を守るためのものであって、決して「殺し合い」と呼ぶものではないからだ────あえてそういう表現をするということは、それとはまるで違うことを意味していることを、皆が即座に理解していたがゆえの動揺である。

「……父上。『殺し合い』とは、いったいどういう意味なのですか…?」

 動揺を押し隠しつつ、最初に口を開いたのは、一族の次期の長と目される第一子である長兄であった。

「…『四大部族の中から一人ずつ代表を選び…その四人に殺し合いをさせよ』と……王は仰せられたのだ。『男女の別は問わない。ただし、十代から二十代の若者でなくてはならぬ』、と…………」

「────!」

 姉たちから悲鳴にも似た声がもれる中、そば近くに控えていた重鎮たちがギリ…と唇を噛みしめる姿がセレスティナの視界の端に映った。そんな条件さえなければ、彼らは率先して代表に立候補したに違いないと、セレスティナは思う。それほどに彼らは、セレスティナたち一族の若者を慈しみ、時には厳しく指導をし、深い愛情を注いでくれていたことを、一族の者なら誰もが知っていることであったから…………。

「更に……『できる限り、長に近い力を持つ者でなくてはならぬ』と王は…っ」

 それ以上は言葉にできなかったのか、父親が両手で顔を覆いうな垂れた肩に、隣に寄り添っていた母親がそっと手をおいて、労わるような瞳で見つめている。そのやりとりだけで、父が語った言葉は真実なのだということをセレスティナたちに知らしめた。

 父はそれ以上────王から通達された、代表選出の最終期日以外は────語らず、その話はそれで終わりになった。


「…………」

 そして父が語った言葉はセレスティナたち五人の胸に重くのしかかり、それぞれの私室に戻るまで、誰も口をきかなかった。

 セレスティナも、たったいま聞いた話は嘘だと…王の悪い冗談だと思いたかった。けれど、あれほどに騒がしい空気をまとっていた水の精霊たちが、いまではただ悲しみを伝える波動のみを発していることから、父が語った言葉はすべて真実なのだと思い知らせる。       

「殺し合い」と父は言った。あの王の性格から察するに────父に連れられての謁見ならばともかく、個人的に話などしたこともないし、直接その気性を知る訳でもないが、父をはじめあちこちからの話を聞くにとても模擬戦のようなもので満足するような性格とは思えないから、やはり本気の命のやりとりを期待しているものと思われる。そして、彼自身は誰よりもそれをよく見ることができる特等席で、見物するつもりなのだろう。代表に選ばれた不運な人物の周囲がどれほど心を痛めることになろうとも、それを意に介するような人物でないことは、安易に想像がつく。

涙が、一筋頬を伝う。精霊たちの慰めるような優しい波動が、セレスティナを包み込み……「泣かないで」と声なき声を伝えてくる。けれど、涙は止まらない。どうして、とセレスティナは思う。

 どうして、そのような無体な真似を強いることができるのだ? 彼自身、誰よりも近しい双子の弟を持つ身だというのに、何故大切な者を喪うかも知れない悲しみを、こんなにも簡単に他者に強いることができるのだ? それも、回避不可能な事態の収拾のためにではなく、ただの己の楽しみ────それも、ただの退屈しのぎという、他の何よりも軽い名目で────のためだけに…………。彼にとっては、他者の命など遊び飽きた玩具よりも軽いものなのだろう。でなければ、こんな残酷な思いつきを実行に移そうと思えるはずがない。

 悲しみを通り越して、怒りさえも心にわき上がってくるが、彼がこの世界────あくまでも人の社会に限っての話ではあるが────で誰よりも強い力と権力を持つ者である限り、そのような感情は決して表に出すことはできない。それをあらわにしたところで、罰せられるのは彼女一人だけでなく、一族郎党すべてに害が降りかかるからだ。どうすればその当人が一番苦しむか、彼はよく知っているから─────その上でこのような提案を持ちかける彼の精神は、人というより悪魔のそれに近いのかも知れないと、セレスティナは思った。

 そうして、代表を決める最終期日の前夜まで、眠れぬ夜は続く…………。




                  *     *




 セレスティナたちの暮らす世界─────創造神ティリアが創りし世界、ティリシアン。その世界の中心に位置し、世界最大の大陸でもあるティリア・リュースに、彼女たち人類が住まうかの国が存在していた。

国の東西南北に点在して居を構えるのは、この世界の四大部族の者たち。セレスティナたち水の一族をはじめ、火の一族、風の一族、そして…地の一族。常人にはない力を持つ彼らは、それぞれの元素の精霊たちと盟約を結び、その力を借りて戦う使命を担っていた。人々を害するものは、野生の猛獣たちばかりではない。動物たちよりはるかに獰猛で恐ろしい姿と力を持った、決して自然ではありえない理の中から生まれ出てくる─────魔物たちだ。それぞれの一族が国の周囲に結界を張っているものの、それらさえ容易く越えて人々を襲い、みずからの糧とする魔物を倒すことが、彼らの何よりも優先すべき使命だった、本来ならば。

「………………」

 国から遠く離れた大草原の中、一族に与する魔導師たちによってその身を転移されたセレスティナは、強く照りつける太陽に向かって顔を上げ、その空の青さに思わずため息をついた。

 その白い肌は水の精霊の加護によって陽に焼けることはことはないが、あまりにも爽やかな快晴の天候と、みずからの境遇との落差を思い、気が重くなってくるのだ。

 長い髪は、動きやすいように後ろで高く結い上げ、動きやすい服装に身を包んだセレスティナは、屋敷にいる時とはまるで別人のようないでたちであったが、その青い瞳は変わらず優しい光に彩られていて……だからこそ、いかにも戦士然とした装いとの差異を際立たせる。服や髪に気を取られて動きが制限されることなど、あってはならぬことであったから、彼女はあえてこの服装を選んだのだ。たとえ、長い間この不毛な戦いに身をおくつもりがないにしても…だ。


 あれから────父から驚愕の真実を告げられたあの日から────熟考に熟考を重ねたセレスティナは、明日には王に最終選考の末の代表を伝えなければならぬというその日、独り両親の私室を訪れ、自分の決意を告げた。たとえ止められたとしても、決して翻すことはないと誓った、固い決意を。それはすなわち、「水の一族の代表には自分がなる」という覚悟だった。

 セレスティナが告げた決意に、父母は驚き、すぐに四人の兄姉と重鎮たちを呼び寄せた。彼らを前にしても、彼女の決意は変わらなかったため、どんな制止の言葉にも決して首を縦には振らなかった。他の三部族に比べ、直系の男子の数が少なめな水の一族において、兄たちを命を落とすかも知れない戦場に送りだすことはできない────彼女たち四大部族が担うべき本来の務めならまだしも、こんな、王の悪趣味な遊戯としかいいようのない意味のない戦いになど、言語道断だった────彼らには、一般の人々を護り、更に水の一族の血脈を次代へと伝えるという、もっと崇高たる使命を遂行してもらわなければならないのだから。姉たちも同様────それに加えて、彼女たちにはそれぞれにかけがえのない恋人がいることも知っていたから。

だから、セレスティナは覚悟を決めた。自分自身の感情をすべて消し去り、選び出したのだ。それはすなわち、王の出した条件に合致し、両親をはじめとする水の一族の者の中で、いなくなったとしてももっとも損失の少ない自分が立候補することだった。

両親に兄姉、重鎮たちに、これまで身の周りの世話をしてくれていた乳母や世話役も皆、セレスティナの覚悟のほどを知って、涙を流してくれた。みずからの不甲斐なさを恥じ、末娘が向かおうとしている過酷な運命を呪い、嘘偽りのない涙を流してくれたから。セレスティナは、それで十分だった。たとえ再び会うことができなかったとしても。この戦いで命を落としたとしても、悔いはなかった。生への未練がなかったといえば、嘘になる。けれどそれは、みずからの命への執着ではなく…………。

 物思いに耽っていた背後から、地を揺るがすような重低音が響き渡る。それはまぎれもなく、魔物の咆哮。位置関係と方角からして、セレスティナを狙っていることは明白だった。だから一瞬の躊躇もなく、水の精霊へ声なき意思を伝え、高くかざした両手のひらに大量の水を出現させる。精霊たちとの連携がうまくいっていれば、空気中の原子から水を出現させることなど彼女には造作もないことだった。そしてそれはそのまま鋭い水の刃と化して、振り向きざまに魔物を襲う。

 いまにも彼女にその鋭い爪を振り下ろそうとしていた、彼女の身の何倍も大きい魔物の首が一瞬でその身から離れ、数メートル先の草むらの中へと消える。それと同時に動きを止めたその大きい身体が傷口から噴水のように血を噴いて、派手な音を立てて倒れるのを見届け、思わずほうと息をついた次の瞬間、背後にあり得ない熱量を感じ、再び振り返る。

!?

「まだまだ詰めが甘いわよー。ティナちゃんてば」

 その愛称で彼女を呼ぶ者は、限られている。でなくても、平常とはあまりにかけ離れているこの状況ではとくに。

「─────サラ…?」

 それは、母方の従姉妹である彼女の愛称。元は一般人であった母は、若き日に父と恋に落ち、水の精霊たちの祝福を受けて、水の一族に迎え入れられたと聞いている。そして、母とよく似た美貌の─────けれど母を水のような雰囲気と気性を持つ者と評するならば、その姉はまるで炎のようだと……伝聞だけでなく、実際に本人を目の当たりにしてセレスティナが思った通りの雰囲気と気性を持ち、母と同じように若き日の火の一族の長と恋に落ち嫁いだ伯母。そんな彼女の外見も内面もそっくり受け継ぎ、セレスティナとほんの数日の差でこの世に生を受けた…いまや従姉妹以上の絆を築き上げ、幼なじみ、もしくは親友といってもよいほどの相手、サラスティア。その彼女がいま、セレスティナとよく似た服装をまとい、目の前で立っていた。

 短くした黒髪によく似合う茶色の瞳に悲壮感などまったくにじませることなく、恐らくは気配を殺してセレスティナに迫っていた別の魔物を、炎で一蹴してくれたのだろう。その証拠に、二人の立っている場所からわずかに離れている所にたったいま燃え尽きたばかりとしか言いようのない大きな躯が転がっており、自然ではあり得ないほどの熱量を感じながらも、服はもちろんのこと、セレスティナの肌にも何の異常も見つからない。こんなことができるのは、火の一族の力をその身に宿すサラスティア以外にこの場にはいない。

「サラ……貴女が、火の一族の代表に…?」

 そうとしか思えない状況ではあったが、訊かずにはおれなかった。それに返るのは、肯定の言葉。

「まあね。あたしはどうせ末っ子だしさ、万が一下手こいても一族にとって一番支障をきたさないしね。それに、あのまま家にいたら、そのうちおっぞましい格好させられてポイ、よ? そんなん、冗談じゃないっつの」

 サラスティアの言うおぞましい格好とは、決して額面通りの意味ではなく、一般的な若い女性なら誰もが憧れるに違いない、美しい花嫁衣装のことだ。普通なら嫌がるはずのないそれを彼女が嫌がるのは、彼女が若い娘とは思えないほど奔放な性格で、年頃の娘らしく着飾ることや女性らしい所作を要求されることを何より嫌うからだ。伯母の美貌を、まぎれもなく受け継いでいるというのに、だ。それをよく知っているからこそ、セレスティナは状況を忘れて、思わず笑みを浮かべてしまう。

「サラがいてくれて……よかった──────」

 これでもう、迷いはない。風と地の一族からは誰が遣わされるのかまだわからないが、どうせ殺されるのなら……誰でもないこの従姉妹の手によるものでありたいと。セレスティナは真剣に思ったから。彼女の手によって命を落とすのならば、悔いはないと。この時は、ほんとうに心からそう思ったのだけど。

「あれ。火と水の一族からは、女の子かよ。驚いたな」

 ほんとうに驚いているらしい低い声に、サラスティアと共に思わずそちらを見たセレスティナは、一瞬心臓が止まるかと思ってしまった。

 そこには、たったいま声を発したと思しき茶色のような金色のような不思議な色合いを見せる髪に緑の瞳の青年と、決して忘れられないほどの想いをセレスティナの心に植え付けた、黒髪黒瞳の青年が連れ立って現れていたから。


 皮肉な運命の歯車が、いま、動き出した………………。



    




誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はブログにて


2012.2.14up

ついに明かされたセレスティナたちを襲う過酷な運命。
彼らの行く先に待つものは…?

背景素材・当サイトオリジナル