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「ん……」

 十二月も上旬が終わろうとしている休日の午前。染井綾乃(そめいあやの)は、いつものように自室のベッドでゆっくりと目を覚ました。

 親戚から安く譲り受けたダブルベッド────シングルマザーの従姉妹が子どもと共に寝るのに使用していたが、子どもも大きくなって別々に寝るようになったため必要なくなったという────は相変わらず広々として…いるはずなのに妙に狭く感じるのは果たして気のせいだろうか。

更にいうと、自分の頭の真横に位置する場所に黒い毛玉にも見える何かがあるのは目の錯覚か。綾乃の髪は肩の上で角度を入れて切り揃えたボブカットで、間違っても真横に流れてこんな大きな毛玉を作るほど長くない。そしてその毛玉の下のほうに、明らかに自分よりも浅黒い肌が見える気がするのは……。

行き着きたくない結論に至りそうになって、綾乃はそこで思考を停止しようとした……のだが。現実は、それを許してはくれなかったようだ。毛玉がよく聞こえない呟きを発しながら、もぞもぞと動き出し、こともあろうに綾乃の胸────これも気付きながらも考えないようにしていたが、綾乃は一糸まとわぬ裸体だったのだ────に恐らくは顔を埋めてきた。その肌触りと所々ちくちくと刺さるようなそれは間違いなく時間が経って生えてきたであろう髭で、更に全身にすり寄ってくるような相手の胸や手足、極めつけに脚の間にあるモノの感触で、それだけで相手が間違いなく男性、しかも綾乃と同じ全裸であることが確認できる。

「ちょ…っ やめ…っ」

 相手の舌らしきものが綾乃の乳房に触れた時点で、さすがに綾乃もキレた。

「ちょっと! やめてってば!!

 その声にハッとしたらしい相手が顔を上げて、その顔を確認した瞬間、綾乃はとたんに目眩に襲われたような気がした。相手も完全に目が覚めたのか、再び顔を下に向けて上げようとしない────その位置で止まられると綾乃の裸体が相手の目の当たりになることになるが、いまの綾乃はそこまで考えが至らなかった。あまりにも、すさまじい混乱のために。

 ちょっと…待ってよ。確か昨日は、うちの学校の職員の飲み会で……飲み過ぎてたこのひとを世話してた記憶はあるのよ。それでどうしてこんなことになっちゃってる訳?

 綾乃は二十七歳で、現在は私立藤林学園高等部で養護教諭をしている。自他共に認める世話好きで────本人に言わせれば貧乏くじを引きやすい性格、だが────ストレスがたまっているのか少々ピッチが早かった同僚の彼を気にして、近くであまり飲み過ぎないように時々チェックしていたのは覚えているのだ。その後、タクシーに乗せた記憶も…おぼろげながら残っている。わからないのはその後だ。現在共にいることから考えて、恐らくは彼と共にタクシーに乗ったのだろう。けれど、どうして彼の家まで行かず、自分の家に共にいるのだろう? 彼の家は確か忘年会会場からは自分の家より近かったはずだ。そこまで考えたところで、またもおぼろげに脳裏をよぎる声。

『女性に送らせて、その後女性を独りで帰すなんて、男が廃ります〜!』

 そうだ。酔っぱらいとはいえ、男としてのプライドが完全に麻痺していなかった彼がそんなことを言って…半ば強引に綾乃の家に先に回らせて。それから? それから自分たちはどうしたのだっけ?

 そんなことを思い起こしていた綾乃の思考は、その直後眼下から聞こえてきた普段とは違う少々弱々しい声に、中断させられた。

「あ、あの〜…非常に情けないのですが、とりあえず起きて身支度を整えませんでしょうか…?」

「そ、そうですねっ」

 慌てて互いに身を離し、ベッドの下に転がっていた衣服を拾い集め始める。ベッドは片側を窓際の壁にぴったり付けているせいで、衣服は綾乃のいる側にしかなかったため、こちらに背を向けている相手のものを顔を向けないままで手渡してやる。そのまま自分も手早く衣類を身につけて、ベッドから立ち上がった。

「お話は後にして…とりあえずお風呂を用意しますので、入っちゃってください。いくら真冬でも、このままじゃ気持ちが悪いでしょうから。私はその間に朝食…という時間じゃないですね、朝昼ご飯を用意しますので」

 さすがに毎日職場で顔を合わせている相手とこんな状況に陥ってしまっては、話をするにも気恥ずかしい。けれど大人として、一応つけておかなければならないけじめもある。そう思い、頭を切り替えててきぱきと支度を始める。


「風間先生」

 脱衣所から風呂に入っている相手にドア越しに声をかけると、「は、はいいっ」と狼狽した声と浴槽の中で体勢を崩したのか激しい水音が聞こえてきた。

「うちにあったもので申し訳ないんですけど、一応新品の下着を替えとして置いておきますね。洋服の替えまではなくて申し訳ないのですけど。あと買い置きの歯ブラシも置いておきます。他のものはご自由に使っていただいて結構ですから。あ、サイズはMでよかったかしら…?」

「あっ はい、大丈夫ですっ 何から何まですみませんっ 下着だけでも大変助かりますっっ」

「ならよかったです。ごゆっくりどうぞ」

 そう言い置いて、綾乃は未開封のトランクスとタオル他を置いて脱衣所を出ていく。食事ができて、ほどなくして相手が出てきたので、話は後にしてとりあえず食事を先にすることにする。一応綾乃も洗顔と歯磨きだけは済ませてきたが。

「! 美味いっス、染井先生料理お上手なんですねえっ」

「あらいやだ、お世辞を言ってもこれ以上何も出ませんよ」

 どこか上滑りしているようなしらじらしい会話をしながら、昨夜のことには不自然なほどにふれずに食事を済ませ、「後片付けは自分が」という彼に後をまかせて、綾乃も浴室へと向かう。

 シャワーで身体を一通り流してから、浴槽に身を沈める。頭に浮かぶのは、当然のことといっていいのか、昨夜のこと。

 やっぱり…ヤッちゃった、わよねえ…。ベッドの脇の屑かごには、動かぬ証拠が入っていたし。

 動かぬ証拠、とは明らかに使用済みの避妊具のことだ。ご丁寧にふたつもあれば、一度では済まなかったことが推察される。以前付き合っていた恋人と別れて一年以上経っている綾乃には、他に心当たりなどない。

 しかし、よりによって職場の同僚と、とは…。彼、風間志郎(かざましろう)は同じ藤林学園高等部の体育教師で、年齢は確かふたつ年下の二十五歳だ。いままでは普通に保健室の利用者と保健室の管理責任者である養護教諭としてうまくやっていたが────そう言うと彼が顧問をしているサッカー部の生徒が怪我などした折に面倒見よく付き添ってきているように聞こえるが、実態はそうではない。自身も元はサッカー少年だったという志郎が練習中の生徒の中に乱入しては、年齢のせいもあるのかいまの生徒たちのほうが実力があるのかはわからないが、ちょくちょく怪我をしては生徒たち数人がかりで運び込まれて、綾乃の世話になるという傍迷惑な面もあるのだ。一応生徒たちに慕われてはいるのだが、そういう時は困るのだとサッカー部員たちに秘かに打ち明けられたこともある────男と女の関係になるのは……少々、いや、かなり困る。

 綾乃は基本的に同じ職場の人間とはそういう関係にならないと決めているのだから。彼が嫌いであるとか、そういう問題ではないのだ。人間としてはまあまあ好きな部類に入るが────件の生徒たちの練習への乱入も、生徒を思うあまりつい指導に熱が入り過ぎての結果であろうから────それとこれとは話が別だ。身支度にずぼらな面も時々見受けられるから、フォローしてあげたいと思わなくもないが、それははっきり言って自分の四歳ほど歳の離れた弟への気持ちとそう変わらない気がするし。頭も、普段ちゃんと梳かしているのだろうかと思うような髪だが、洗ってちゃんとドライヤーをかけた状態を見てもああなのだから、もともとそういう髪質なのだろう。

 それにしても。湯船から出て身体を洗いながら全身を改めて見回すと、あちこちにやたら赤く鬱血した跡が残っているのがわかる。彼は、そういう跡を残すのが好きなタイプなのだろうか? いままで付き合った相手は比較的ドライなタイプばかりだったので、何となく新鮮だ。それほどまでに強く自分を求めてくれたのかと思えてきて、何となくくすぐったさを覚えてしまうが、決して不快ではない。以前から、彼のことは手のかかる弟のように好ましく思っていたから。そんな自分に、軽く驚きを覚えてしまうほど。

 身支度を整えて、リビングで所在なさげにテレビを見ていた彼の、テーブルの向こう側に腰を下ろすと、彼────志郎が目に見えてぴくりと反応した。

「とりあえず落ち着いたところで、今後のことをお話したいのですけど…よろしいですか?」

 普段職場で話すように落ち着いた口調と丁寧な言葉遣いで声をかけると、志郎が慌てたように綾乃の目前に手のひらを差し出してきた。

「? 何ですか?」

「その前にひとつお伺いしたいことがあるのですが…男物の下着が常備されているということは、先生には現在、特定のお相手がいるということですか!?

 いきなり、いったい何を言い出すのだろう。

「いいえ。そんなひとはおりません。あれは以前、この近くの職場で働いていた弟が、たまに終電を逃した時に『泊めてくれ』とやってくることがあったので、替えとして買っておいただけのものです。その弟も現在は結婚して、もっと通勤に便利な所に引っ越したので、たまたま残っていただけですわ」

「そうですか……」

 質問の意図も、答えると同時に志郎がホッとしたような表情を見せた意味も、綾乃にはわからない。

「少し…そう、三十分ほどお時間をいただけますかっ!? ちょっと、その前に行ってきたいところがあるので」

「構いませんが……」

「ありがとうございますっ ではすぐ戻ってきますので、どうか少しだけお待ちください!!

 言うが早いか、志郎はみずからの上着を羽織り、即座に玄関から飛び出していってしまった。このへんの地理をわかっているのだろうかと心配になったが、以前必要に駆られて携帯の番号を交換していたから────数ヶ月前、志郎の不在時に練習をしていたサッカー部員が、悪ノリの果てに大怪我をして綾乃が病院まで付き添ったことがあるからだ────わからなくなったら連絡してくるだろうと綾乃は楽観的に考えていた。

 そしてきっかり三十分後、志郎は無事に戻ってきた。大きな、真っ赤な薔薇の花束を抱えて。それを受け取ってから見たその包装紙は綾乃も知っている近所の花屋のもので、よく場所を知っていたものだと感心したが、志郎は「先生が入浴されている間に携帯で検索して…」とこともなげに答えた。なるほど、便利な世の中になったものだと綾乃は思った。

「そ、それでですねっ」

「はい」

「こうなってしまったからには、もう正直に話させてもらいます。お、俺っ ずっと染井先生…いや、ここではあえて『綾乃さん』と呼ばせてもらいます。以前からずっと、綾乃さんのことが好きでした! こんなことになったから責任をとるとかそういう意味でなく、これからほんとうの恋人としてっ 俺とつきあっていただけないでしょうかっ!?

 今度はテーブルを挟むことなく、綾乃の目前で正座して、綾乃の目をまっすぐに見つめて志郎は言い切った。その顔は、たったいま綾乃が渡された薔薇の花に負けないぐらい真っ赤で……とても嘘や偽りとは思えないほど真剣なそれだった。

「え……」

 予想もしなかった申し出に、綾乃の頭の中は薔薇や志郎の顔とは対照的に、真っ白になってしまっている。

 誰が…誰を好き、ですって? 風間先生が? 私を? 冗談…とはとても思えない顔と態度よねえ…。

 志郎のことは嫌いではない。むしろ、好きなほうに入る。同じ職場の人間でなければ恋愛対象に入れてもいいぐらいには。けれど綾乃には、以前みずから課した決めごとがある。それは過去に何かあったという訳でなく、単にもめたり別れたりしたら面倒だし気まずいからという理由が元だが……けれどこの時の志郎は、とても職場の同僚────同年代の男性には見えず、社交辞令や建前を取っ払ってしまえば、「可愛い年下の男の子」としか思えない表情で。更に言ってしまえば、「捨てないで」と縋る小犬のようで……首を横に振ることなどできなかった。だから、自分の唇がその直後どんな言葉を紡いだかわからなかった。

「わ…私でよければ…………」

 次の瞬間、志郎の表情が別人のように輝き、その変化に気付いて綾乃はみずからの返答の意味をようやく考えることとなる。

「マジですか!? よろしくお願いしますっ!! 絶対絶対、幸せにしますからっ!!

 え…いま私、何て言った?

 綾乃がみずからの発言を思い返すより早く、逞しく力強い二本の腕が綾乃を抱き締めてきた。

「ホントに…嬉しいっス……」

 いまにも感涙にむせびそうな志郎の声を聞きながら、綾乃は自分の胸にある薔薇の花束のことを思い出す。

「ちょ…ちょっと待ってくださ…! 薔薇が、潰れちゃう……」

「あ、忘れてた」

 ようやく綾乃を解放した志郎の表情は、まるで思春期の少年の素直な笑顔そのものだ。その顔だけ見ていると、とても自分と同じ職場で働く大人には見えない。何だかすごく可愛く思えてきて、綾乃の胸が大きく高鳴った。次の瞬間、ひょいと花束を取り上げられて脇に置かれ、更に綾乃自身も同じように軽々と抱き上げられて、またもや急激に現実に引き戻されるのだけど。

「えっ!?

 目前に迫るは、志郎のいたずらっぽい笑顔。

「何だかまだ夢見てる気分なんで、いまが現実だと確認したいんですけど…いいっスか?」

 志郎がちらりと視線を走らせるのは、奥の部屋────綾乃が寝室として使っている、少し前に志郎と共に目覚めた部屋だ────それの意味するところはひとつしかなくて……。

「い、いまから? まだ陽も高いのに…」

「ダメ…っスか…?」

 ああまた、そんな小犬が縋るような目で…!

 自分がこんなにも押しに弱いなんて、綾乃は思ったこともなかった。

「で、でもほらっ アレもないしっ そちらももう持ってないでしょうっ?」

 『アレ』とは、言わずと知れた避妊具のこと。前の恋人と別れて久しい綾乃がもちろん常備しているはずもないし、昨夜使ったふたつだとて、恐らくは志郎が持っていたものだろう。男性はひとつやふたつ、常備しているのがエチケットとも聞くし。そんな綾乃の訴えは、彼の挙げた提案とはあまりにもかけ離れた爽やかな笑顔で一蹴された。

「半ば賭けでしたけどねー。花を買うついでに薬局寄って、念のために買ってきたんスよ」

 そう言って、綾乃を抱きかかえたまま志郎がジャケットのポケットから器用に出してきたのは……仕事でも────生徒たちへの性教育の一環のためだ────プライベートでも何度か見たことのある、とあるゴム製品……。交際を申し込んだところで、綾乃に断られる可能性もあったというのに、そんなものまでちゃっかり用意しているとは。断られなかったら、初めからそっちに話を持っていく気満々だったということか。

人畜無害な忠犬のような顔をして、中身は立派な狼であった新たにできたばかりの恋人に、綾乃の頭の中に「後悔先に立たず」という言葉が浮かんでは消えた。

「そういう訳で、よろしくお願いしますよ、綾乃さん♪」

 そしてその後。睡眠と栄養をたっぷり摂った志郎に、綾乃はしばしの間完全に拘束されることとなった…………。






   







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2013.12.21up

ひょんなことから始まったお付き合い…。
綾乃はどこまで流されて行ってしまうのか。
そして志郎の本性はどこまで見た目を裏切るのか?


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